傲慢と謙譲
こんばんは。土曜日の夜に、ヌッと出てきた妖怪…ではなく、アラフォーです。
私は、まさか、自分が障がい者になるなんて、思ってもいなかった。
身体障がい者や知的障がい者の方々は、先天的な方もいらっしゃるが、精神障がい者でも、後天的な障がいは、なかなか現実を受け入れることが出来ない人も多い。
私の姉もそうだ。障がい者手帳を貰うことを頑なに拒否し続けていた。
私も、障害者手帳を手にした時は、色々な感情が込み上げてきて、涙が出そうだった。
それでも、認めざるを得ない状況が、目の前に横たわっていた。
それまで生きてきた中で、普通に出来ていたことが、ある日を堺に、徐々に出来なくなる。
出来ないことへの苛立ちや、情けなさ等の葛藤を繰り返しながら、それでも、現実は、誰かを頼らなくては生きていけない。
受け入れられない人の気持ちも分かるが、私は障がい者じゃない!と言い張る姉に対して、障がい者を見下しているから、同じになりたくない、と言う思いなのだろう、と思う。
誰にでも、人と比べてしまうこともあるし、自分より下を見て、安心することもあるだろう。
だが、日本人がよく言う「〇〇より良いと思う」と言う言葉が、私は嫌いだ。
その言葉は、その人や物を、蔑んでいる。
このクソみたいな負け犬根性の言葉が発せられる度に、腹が立つ。
下を見て、自分はマシだと思うその根性、張り倒して叩き直してやりたい。
私も、人と比較して、嘆いたりした時があった。
だけど、人はそれぞれ、皆、違う。
一卵性双生児の私と姉でさえも、全く同じではない。
違うものを比べようが無い。
一定の水準を超える必要が有る時は、比較が必要だが、私は、工場で生産された画一的な物ではない。
個性のある1人の人間だ。
比べるのはやめて、上を見るのも、下を見るのもやめる。
私は私。今ある自分自身以上でも以下でもない。
自分に不足を感じれば、努力すれば良い。
努力でどうにもならないものは、諦めるしかない。
そんな簡単で、でも大切なことを、今まで、忘れていた。
諦められなくて、限界だと分かっていても、走り続けて、精神病になってしまった。
どうにかなる、ではなく、どうにかする、と思っていた。
でも、ある時から、それが出来なくなった。
その時から、自分を変える努力より、人を変えることを考えていた。
自分の成長の妨げを、自分でしていた。
その時の私は、何も変わらなかった。
ただ、毎日、辛いばかりで、同じことの繰り返し。
口から出るのは、逃げる理由と、悪口や愚痴ばかり。
最低だ。
自分が嫌いだ。
そんな時、母の五年祭を済ませて、母が喜ぶ私になりたい、と思った。
一生、愚痴って生きていくの?悪口言って、醜くなりたいの?
何も変わらない、ではなく、変えようとしていないだけではないの?
自分に問いかけてみた。
今までは、〜しなくてはならない、と強迫的に思っていたが、〜したい、と思うようになった。
何がトラブルがあれば、自分を見つめる。
相手を変えようとするのではなく、自分を変える努力をする。
それでも問題がある場合は、相手と戦う。人の助けを借りながら。
母の喜ぶ私を目指しているが、どんな人になりたいのか?が分からないと、自分を形作ることが出来ない。目標があることは大切だと思う。
目標があり、努力をすれば、ある程度のことは解決出来るし、解決出来ないことでも、諦めがつく。諦めも大事。
人を羨んだり、妬んだりする人は、努力をしていない人だと思う。
姉は、よく、〇〇さんは元々出来るから、と言っていたが、生まれた時から何でも出来る人なんていない。
きっと、その人も、人の知らないところで、努力してきたのだと思う。
頑張っても、思う通りにならない事もあるけれど、必ず他の形で役に立ったりする。
努力して無駄なことなんて、何一つ無い。
逃げる理由を考えるのか、やる理由を考えるのか。
どうせなら、前に進んだ方が良い。
人生、いつ終わるかなんて、誰にも分からない。
ただ、最期の時が来て、自分の人生を振り返った時、私の周りの人が喜んだ顔が浮かぶ様な人生を送りたい。
なかなか、理想と現実は程遠く、少しずつ前に進むしかないけれど、それでも前に進めたことを喜びながら、自分を成長させていきたい。
自分だけが良ければ良い、という汚ない心だと、成長出来ない。
人の幸せを自分の幸せと思える人が、素敵な人だと思う。
私は、自分を誇れる自分になれる様に、自分の課題を明確にして、それを改善する努力を、気長に進めていくつもりだ。
素敵な人を目指して。
稚拙な文ですが、読んで下さり、ありがとうございました。