幸せの定義
こんにちは。麗らかな昼時に、ヨロヨロと出てきたアラフォーです。
最近、noteを書く気にならず、放置していた。
書きたいことが定まらず、又、私の周辺の環境がゴタゴタしていて、愚痴を書きそうだったので、書かないようにしていた。
だけど、完全なる引きこもりだったのが、最近、頑張ってご近所を徘徊したりして(よく言えば散歩)出掛けているので、何か良い兆候かもしれない、と思って、書くことにした。
以前の私が目指していたのは、精神障害者のラベルが取れること。
健常者であった時の様に、自由に動き回り、普通の生活が出来る様になりたくて、必死だった。
健常者の方々は、普通に過ごせる日常がどれ程ありがたいか、それに気付かない人が多いのではなかろうか。
私は、パニック障害を持っており、バスや電車に乗れない。美容室にも行けない。1人で外出も出来ない。トイレの扉を閉めることが出来ない。
所謂、閉所が怖くて駄目なのだ。
美容室は閉所ではない、と思うかもしれないが、髪を切り始めたら逃げられないので、閉所だ。
予期不安が過り、電車やバスの戸が閉まると、体調が悪くなっても逃げられない!と恐怖に思ってしまう。
ただ、貧血治療で行っている内科だけは、1人で行ける様になった。体調が悪くなっても、医師がいるので、安心だ。
私は、強迫性障害も持っており、極度の潔癖症でもある。手をずっと洗ってしまい、水道代が、一人暮らしなのに、三人家族のヘルパーさんと同じ金額だ。
そんな不憫な人間だが、うつ病になって、良かったなぁ、と思うことがある。
それは、精神疾患を抱えている人の気持ちが分かることだ。経験者でないと分からない辛さがある。
人の痛みが分かることは、最大の武器だと思う。
殆どの人達は、精神疾患について、今だに、心の問題だと思っているのではなかろうか。
人の痛みが分かれば、それを、人への優しさに変えることが出来る。
だが、私の性格は、キツイ。自分に厳しいけれど、他人にも厳しい。
私は、小学生の頃、酷い虐めにあい、「近寄るな」「笑うなキモい」「汚ない、臭い」等の罵声を浴びせられた。
勿論、毎日お風呂には入っていたのだが、理不尽な心無い言葉は、止むことは無かった。
父も、厳しい人で、何に対しても否定的だった。
私と姉が鬱病になった時、「我が家にキチガイが二人もいるのか。」と言われた。
父は、父なりに、私や姉を大切に育ててくれたと思っている。
父は、父の母から愛情を受けられなかったらしく、愛情表現が分からなかったのだろう、と今なら思えるが、父が生きていた時は、和やかな家庭環境が難しいこともあった。
母は、厳しくも大切に育ててくれた。
母が大好きだったので、亡くなってからが辛くて、今でも毎日思い出してしまう。
そんな、暗くて陰気で鬱病な私は、自分の課題は、ネガティブなところだと思っていた。
然し、もっと大きな課題があって、それは、キツイこと、だと気付いた。
母にも生前、私の発言のキツさを何度も注意された。
でも、なかなか直せず、月日が経ち、今でも、ゴタゴタを作り出してしまっている。
悪いところを指摘して何が悪いのか?
改善すれば良いだけのことではないか。
甘ったれるな。
と思っていた。
私の発言のキツさがどの程度なのか、私には分からない。この程度で傷付くの?と思う。
何故なら、私の人生において、それ以上にキツイ言葉を沢山浴びせられてきたからだ。
ここで、矛盾が生じる。
その矛盾とは、先に述べた、「精神疾患の人の痛みが分かること」と、上で述べた、「鋭く指摘される事で、傷付く人の痛みが分からないこと」、だ。
矛盾を無くす為に、私の何が間違っているのだろうか?を考えてみた。
私の言っていることは正しい、と言われる。
だが、キツすぎる、と。
私は、間違っていない。言っていることに於いては。
だけど、やっていることに於いては、私は正しいのだろうか?
人を傷つけることが、正しいのだろうか?
もっと他の言い方ややり方があったのではなかろうか?
人を攻撃している私は、結局、私を虐めた奴らと同じクズなのではなかろうか?
人に対してもキツイが、自分自身に対してもキツイ。甘えは許さない。
相手を否定するが、自分自身も否定する。
自分が傷付いてきたからと言って、人を傷付けて良い理由にならないことは、分かっている。
自分で自分を責め立てて追い詰める。辛くて苦しい。
然し、人生は、苦しむ為にあるのだろうか?
私は、障害者のラベルが取れること、自分の駄目なところを直すこと、を目標にするのでは無く、どうしたら幸せに生きられるのだろうか?に焦点を合わせる事にした。
そこで必要になるのは、幸せの定義だ。
自分が幸せなら、人はどうなっても良いの?
それって、本当の幸せなのだろうか?
私は正義感が強くて、曲がったことが大嫌い。
だから、キツくなってしまう。
だけど、それで人を裁いて、本当に幸せなのだろうか?
傷付けた人達の屍の上に成り立つ幸せって、本当の幸せなのだろうか?
本当の幸せとは、人が喜んで、私も嬉しいこと、ではないのだろうか?
そうであれば、障害者であっても、幸せは掴める。
精神疾患が完治しなくても、私の駄目なところが直せなくても、人の幸せが自分の幸せだと思うことが出来れば、私は、幸せになることが許されるのだ。
又、人の幸せのみが幸せではない、とも思う。
結局、幸か不幸かは、心次第。
貧乏でも、障害者でも、「ポテチが美味しかった、幸せ」で幸せに生きられる。ポテチ位で何が幸せだ、と思えば、幸せになれない。
幸せだと感じることが出来るのは、感謝が出来るかどうかなのだろう、と思う。
私は、今、外出する努力をしている。将来的に、人の役に立ちたくて、その為に、今の自分を変えたいと思うからだ。
少しずつでも良い。一歩ずつ前へ進みたいと思う。
それは、将来、私によって、救われる誰かの為になる、と、思うから。
乱文、お許し下さい。