【落書き】11,文学のすれっからしのちょっと言いたいこと 文学論
文学とはまた大層なものをぶち上げたけれど、言葉で遊ぶものは皆文学に収容されると思っているためで。で、正統派ではなく(そんな派があるかは知らんが)なんだかもうすれっからしというあたりがわたしの座しているとこだろうと思っている。そんなわたしの文学論。みたいなもの。文学部じゃなかったけど。論てなんだ。文学について思っていること。もしくはわたしの作品に対する長い言い訳。です。
書いてて思ったけれど、まあ、時代遅れのような気もしてきた。
それでもせっかく書いたのでアップします。
非常に長くなってしまったので、お時間のある時にお読みくだされば幸いです。
はじまり。はじまり。
「文章の貴族(=作家)」なる語をネットで見た。誰が発案したのかな。
わたしはその単語、率直に言えば、気に食わなかった。
その単語を発した人を信用しない。この人大丈夫かなと不信感を覚えた。卑屈の匂いがする。まあ言いたい雰囲気は分かるような気がするけど、では、文章の平民、なんて、ヒエラルキーがあるのかな。平民の下は奴隷?乞食?うーむ。
作家でいいじゃないか。
まあ、いいとして。思ったのはこうだ。
文章の貴族の書くものとは、何だ。
作家の書くものとは、何だ。
わたしたちが書くものとは何が違うのか。
文学とは、何か。
大学で何学部に入るか、特段やりたいことがなかったわたしは、本が好きだったしで、文学部か法学部かと思っていて、三島由紀夫が法学部出身だったので救われる思いで法学部にした。法学部の方が就活につぶしがきくかもという下心で、法曹の志はなかった。
そうしたら、法学部に決めてからさして時間が経たぬうちに、文学こそ無法だという痛烈な一言を目にし、頭をガーンとぶっ叩かれた思いをしたので強烈に覚えているのだが、言ったのは、私が敬愛している石川淳だった。小説家である。文学こそ無法だという。法が無い、自由だ、と、解釈した。道理に外れているとか、乱暴なとかは、それすらも内包するのかもしれないが、重きをおいていない。
石川淳の言葉は抵抗なく腹に落ちた。わたしは信じる。そうでなくちゃならんという気もする。とにかく宇宙のように漠として、なんでもありが文学だ、と思った。
ひよ子が初めて眼にする動いて声を出すものを親と思うように、石川淳はわたしの親となった。
これがわたしの根底を流れている。無論、無法でなきゃ文学ではないという理屈は、ない。文学の定義は人それぞれに抱いていることであろう。
文学的、というと、何か美しい芸術的なもののように思うかもしれないが、それは文章の飾りが上手い下手の上辺のことだと思う。もっと、文章を生み出す際の作者の闊達なこころの働きや、思いの丈が読む人をうつのだと思う。それが文学的、と呼ばれる文章の正体ではないだろうか。ただのレトリックだけのものは、人をうつことはできないと思っている。
noteには本業が作家の方もいらっしゃるしで、わたしごときが論をぶち撒けたところで、鼻で笑われてお終いかもしれないけれど、続ける。
無法を懐く豊穣なる世界を生み出す書き手は何ものか。無法者なのか。わたしに言わせると、何をしていたっていい。乱暴だけどそう思う。ただし、礼儀は無くてはいけないと思う。これは三島由紀夫が横尾忠則に言った言葉で、なぜ私が知っているかというと、横尾忠則の講義を聞いたことがあるためである。作品は無礼でもいいが、人は礼儀が大事。これも何の疑念も持たないで、そういうものだと思っている。
ここからは自分の話をしよう。
クリエイターとして、自明かもしれないが、作品が全てだと思っている。(のわりにはエッセイも書いているが、私のガス抜きのようなものなので、ご容赦頂きたい。)
しかし、これは言い訳になるのだろうが、貴女はエッセイでいついつまるまると言っていたのに、作品はかくかくしかじかと、尋問されると、ぐうの音も出ない。無法は小説に限ったことか?わたしは、詩もまた無法なり、と思っている。わたしの年表と作品の発表順はリンクしない。無茶苦茶だろうか。
詩には時は存在しないから、と、わたしは詩情が固まりしだい、詩にしていて、それによって気持ちをも昇華させていることを白状する。例えば恋愛の詩なら、あたかも進行中のように切り取って出したりもしたこともある。けれどもそれが反則とは思っていなかった。一個の作品だからである。
詩の出発点は主に自分だった。レンブラントへの思いも欺いてはいない。
でも根底には、繰り返すが、詩もまた無法であるという意識があったので、(詩はイマジネーションの翼を持つものだし)時などはすっ飛ばし、抑揚などもつけた。それで混乱させてしまったのかなとも思う。
でもそれほど読んで頂き感謝もしている。わたしが中途半端でごめん。わたしは好き勝手にやっていたのである。ちなみにこれからも好き勝手にやる。
それでは、落書きと称しているエッセイ、ブログみたいなものは何だ。
フィクションか。
フィクションではない。エッセイは、またちょっと違った分野だと思っている。エッセイは文学ではないと言われたら、平安時代から綿々と人々が綴ってきた日記やエッセイは、文学ではないのかねと言いたくなる。エッセイは無法なのかと言われたら分からない。エッセイはちょっと違う気がする。エッセイだから。
ちょっと思ったけど、短歌や詩歌や俳句や歌詞は割愛する。わたしは不得手だし、憧れしかないから。
それこそうんと昔から人々が愛し詠ってきたものであり、そこに、わたしなんぞが口をはさむ隙間はない。
尻切れトンボの感じが否めないが、要は、私の言いたいことは、楽しくやろーよー、警察やめてよー、あそぼーよー、である。それがわたしの文学論である。凄い思い違いをしているかもしれなくて恥ずかしい。自己満足臭ぷんぷんしますね。。急にまとめにかかったが、以上でこの論を閉じる。
最後に、いつも読んでくださり、スキをくださる皆さまに深く感謝申し上げます。救われています。ありがとうございます。
次へ進む為に夜寝ないで一気に書きました。最後までお読みいただき重ねてお礼申し上げます。一刀両断に斬り捨ててもよし、バラバラ殺人に捌いてもよし、煮るなり焼くなり何なりとして下さい。
なんだかんだと言ったけど、自由にいこうよ。ということです。(๑>◡<๑)(あ、今までの文、一言ですんじゃった)(力尽きた)(バタリ)
おしまい。