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2/23 『百億の昼と千億の夜』を読んだ

むじ~~!
初めて読む作家。しかし以前から、タイトルとか表紙とかあらすじとか見てて、かっけーなと思っていた本だった。それでこの度ようやく読むに至ったわけだが、いやあ難しかった。あらすじでプラトンや悉達多やイエスが出てくるって時点で予期はしていたが、しかしむしろかれらのパートは後半に比べれば読みやすい方だった。それぞれの詳しい遍歴や物語などはわからずとも、名前は知っているし大体どんな存在なのかはわかるのだし。
だが後半は……ひとえに、大変だった。あからさまにページをめくる速度が低下というか、ほぼ無風状態となった。なにしろ、視点人物となっている者が何なのかからわからない。誰だか知らない奴が、いつとも知れない時間にどことも知れない場所を何故かもわからないまま探って、何がどう起きてるのかもわからぬまま進んでいく。5W1Hがことごとく死んでいる。でも頑張って歩を進めていくと、少しずつ、わからない何かのすがたが見え始める。ただ見えてくるのは何かの端っこやほんの一部ばかりで、全体を見通すには程遠い。せいぜい「とにかく、何だか荒廃している」ということぐらいしかわからない。
あるいはそれこそがこの作品のテーマであると朧気ながら理解されてきたのは、だいぶ終盤であったか。大いなる存在があり、大いなる計画があって、それによりこのどこもかしこもな衰亡はもたらされてるようだが、しかしその衰亡は大いなる存在や計画そのものにも及んでいる。神のごとき超常存在のスケールは際限なく上がっていくんだけど、滅びも同様に際限なく進行していく。このどうにもならんぞ感、どうにもならんところまでもうどうにかなっちゃってるぞ感は、弐瓶勉とか上遠野浩平とかで見知った感覚であり、なるほどこの系譜だったんだなと、作品同様に悠久なる時の流れを感じたりした。
わからんわからんとは言いつつも、シッタータ、あしゅらおう、おりおなえの3人が集い、旅路を歩んでいくすがたは、慣れていくとそれなりに楽しいものだった。あしゅらおうが、阿修羅王時代からいやにカワイイ描写されているのはなんなんだ。仏道の敵だから煩悩なのか?と最初思ったけど、そういうことでもなさそうだし。歴史上・伝説上の人物の女体化の、これも系譜ということなのだろうか。
そのゆかいな3人組も最後には1人になってしまい、寂しい。ただ、悲しいとか絶望的とかいう空気は不思議とない。まあ人類なんてそんなもんだしな、という気分があるからか、滅ぼそうとしてるやつらも滅びかけてるしな、という気分があるからか。永遠に広がり続ける宇宙と、それを永遠に追い続ける滅びと、しょせんちっぽけな人の身ではそれらを認識することさえおぼつかないし。たとえ世界の巨大さと虚しさを目の当たりにしようとも、我々には目の前の些細で重大な問題にあくせくするしかできることはないのだ。どれだけ原始的と言われようとも。

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