5/18 『マイ・リトル・ヒーロー』を読んだ
オンラインゲームの世界に閉じ込められて意識不明になった子どもの話と聞いて、SAOよりも.hack//な世代としては注目せざるを得ない、ましてやそれが冲方丁の手によるものならば。ただ、読み進めていけば、どうやら意識不明の謎は本筋ではなく、あくまで本筋の物語へのすこしふしぎなきっかけにすぎないものとわかる。まあそれはそれでありだろう。考えてみれば.hack//も、意識不明になる仕組みとか理由ははっきり描かれてたりしてなかったしな……SAOではその辺どうなんだろうか。
それでは本筋の物語が何かというと、意識不明になった息子ではなくその父親の、再起と成長の物語だった。息子も成長するんだけど、その成長はなんというか、自然の摂理のようにとめどなく、ひた走る息子の背中を追うように父親も走り出していく。作中でもまさにそのままな光景が描かれたりしてたけど。流れるように成長していく息子のその潮流を、どうか堰き止められることのないよう、周りの助けを借りながら必死こいて灌漑していく懸命さだった。
ゲームに意識が閉じ込められるという設定に対し、読者視点では「まあそういうものなんだろう」で片づけられるものの、作中の現実としてはどう受け容れるのだろうかと思ったら、しっかり者だけど信心深い祖母のスピリチュアル適性が、状況をむやみに拒絶させずに一旦は受け止めさせて、その後実際の光景を御覧に入れることにより受け容れさせるという流れは、実に無理なく……いや、起こっていること自体が非常識なので無理ないわけはないのだが、スムーズに話を運べていてうまかった。後に秘密を共有するマシューもまた「それ」を信じるたちであったことは途方もない幸運であり、ぶっちゃけ御都合ではあるのだが、この物語はそこが主眼ではない以上、必要なショートカットとというものだろう。
作者曰く「悪人のいない物語」ということで、確かに登場人物は誰も彼も、憎めるような人はいない。ただこれはいわゆる「優しい世界」的なものというよりは、主人公の暢光に代表されるように、持ち前の善性で悪い方へと動く心を、そこへ至る選択を断ち切るという困難な所業を、誰もができているってことなんじゃないか。「優しい」んじゃなく、「難しい世界」を、かれらは生きているのだ。小学生からお年寄りまでがあの非常に煩雑なオンラインゲームに習熟できてることも、その証左ではないか。ただその中でも剛彦などは、ちょっとどうなんだというキャラ造型だったりするが……まあ悪人といいうのとはそりゃ違うが。なんだろう、ふてぶてしい、というべきなのかな。ああいうふてぶてしさが、特にへこたれもしないまま生き生きとし続けるのも、ある種愉快だ。
クライマックスは文字通りの意味でも(と言おうと思ったらクライマックスの綴りはCLIMAXであってCRYMAX=最も泣けるところという意味ではなかった)息子の凛一郎が暢光を世界大会のパートナーに指名するところで、そこから先の最終章は少し単調というか、波乱や裏切りのようなものは殆どなかったのがやや不満点としてあったが、歯を食いしばって息子を信じ続けることが暢光の最大最後の戦いとなっていた以上、構造的に仕方ない面もあるか。とはいえ最終決戦は盛り上がった。真正面から向かっても倒せない相手に自爆攻撃を仕掛けるとことかファフナーの戦闘じみてたし、ミストの炎に灼かれながら相手を待ち伏せするところなんかも痛みに耐えて戦う戦法って感じでよかった。いや強引すぎるか。そこまで結びつけなくてもよいか。
最後、凛一郎は無事目覚めるも、やはりここでも何故そうなったか、結局原因は何だったのかなどは語られないが、最早誰もそれを疑問視することは無い。といってその「奇跡」が去った後もなお縋ったり、過剰に喧伝したりすることもなく、節制の取れた振る舞いに収められているあたり、やはりみんな難しいことができているなと感じる。容易には真似できないからこそ、憧れる気持ちもある。暢光に導かれた人々も、きっとそのような気持ちを抱いて歩みだしたくなるのだろう。