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映画「ドクター・デスの遺産 BLACK FILE」と死生観

映画「ドクター・デスの遺産 BLACK FILE」
2020年の映画。ネタバレ注意。

死=悪なのか

安らかな死のお手伝い、と嘱託殺人として扱われている映画。
「本人がもう楽にしてほしいと望んでも、◯していいことにはならないんですよ」という刑事役の綾野剛さん。
「最期の顔は美しかった」という相手に対して、刑事役の綾野剛さんは「美しい死という名目での快楽犯だ」というようなことを犯人とされる相手に言っている。

これは、側から見れば、嘱託殺人として当たり前に見え、“ドクター・デス”をその名前の付け方からも、悪として描かれている。

確かに、最後の綾野剛さんの入院中の子どもに辛い誘導をするのはよくないし、子どもを連れ去ったのはよくない。
けれど、それと、それまでの他の人の過程は同じではないと私は思っています。

とどめる生命と見送る生命


また、別の場面では、刑事役の綾野剛さんのバディ役の北川景子さんはこうとも言っている。
「被害者は誰なんでしょうね?」

この言葉は非常に意味深いです。

綾野剛さんも北川景子さんも刑事役、つまり“法律”の元で動かれるわけですから、間違ってはいないのですが、果たして、その“法律”は現場の実態に追いついているものでしょうか。

私は学生時代に、指導者から「生命には二通りある。とどめる生命と、見送る生命だ」と教えられました。(安楽死が善という意味ではありません。)
その見極めはもちろん慎重であるべきですが、仕事をしばらくしてその意味がよくわかるようになりました。


《8割は平穏死を望む人けれど、8割の人は平穏死できない》という、石飛医師の言葉は本当だと思います。

私が十数年、看護に携わっていて、最期がきれいだと思えたのは、思い出せる限りわずかお一人でした。(もちろん、安楽死ではありませんが)


また、よくドラマにある“治療法がない(治すいう治療ができない)”ということと、医療から見離されたということもイコールではありません。


治療法がないからといって、生きていることを否定しているわけでもありません。

話が大きくなるけれど、人間も地球上の自然界の中で生きています。
余計な医療をしないことが本人の苦しみを軽減することだってあるんです。それはかわいそうなことでも、ほったらかしにしていることでもありません。ご本人の自然な生命力を覚悟を持って信じて、ご本人とご家族と話し合いながらケアを選択していくことこそが、何よりの生命の尊重、尊厳であると、私は思います。

法律は何の為にあるのか、誰の為の法律なんだろうか、人の生命とは、最期とはという原点を問い直す必要があると思います。

とあるドラマの大捜査線でこんな名セリフがあります。
「事件は、会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ。」と、 
その言葉にあやかるのなら、
「事態は、書面上で起きているんじゃない。人間のLIFE(生活、〈心身の〉生命、人生)で起こっているんだ。」


「ドクター・デスの遺産」は本当にBLACK FILE なのか。 10年後、20年後、再びこの映画を見た時、もっともっと違う角度から見てみたいなと思いました。

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