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ご贔屓マジック。

先日書いたこちらの記事の中で、ご贔屓というのは特別で、ひとたび目にすると雷にでも打たれたかのように、全身に電流が走るという話を書いた。


この、実に不思議な感覚を味わったことがあるのは、恐らく、わたしだけではないはずだ。
どちらかというと、ひやりとする感覚に近いような、ぎゅっと心臓が痛くなる感じ。
そしてその直後、とてつもなく大きな多幸感に包まれる。
この感覚、結構麻薬的だ。
 
この麻薬的感覚は、舞台上にいるご贔屓と目が合ったときにも陥る。
あの、息が止まりそうな苦しみこそ、快感。
 
…書けば書くほどやばい感じになってきたので、少し話を変えよう。
 
わたしがご贔屓をきちんと(※)追っていたのはほんの2年ほどなので、あまり声を大にして推していると言えないのかもしれない。
でも、好きな気持ちは絶対に誰にも負けないとずっと思っている。
どこからその自信が湧いてくるのかはなぞであり、大いなる自己満足であることを念のため断っておく。
(※会に所属し、入り待ち出待ちお稽古待ち、お花代、お茶会や総見への参加、などなど)
 
ご贔屓のことはどこにいたって見つけられるのだが、とりわけ、手だけ見れば見つけられるのは特技と言ってもいいだろう。
座席の関係でお顔が見えなくても、初見の舞台でとにかくオペラで探し回ったとしても、手さえ見えればどこにいるか分かるのである。
もちろん、歩き方、踊り方、身のこなし方などでも分かるが、手だけでも十分なのだ。
あいにく、どういう手かはまだ言語化できないのだが、今この瞬間もまごうことなく頭の中に描くことができる。
 
さすがに、手だけ見て息が詰まることはないが、はっとして息を飲む。
見つけたよろこびと、直接会えたようなうれしさ、それに、手だけで見つけられた自分に酔うような気分。
その感覚もまた、一つの快感………とまたもおかしな方向に行ってしまった。
 
こっそり打ち明けると、ときどき「もしかして、もうそんなに好きじゃないのかも」などと思うことはあった。
どうしたって、現役時代より露出は減っているわけで。
そもそもきちんと(※)追おうとすると上手く追えないわたしは、それだけで劣等感に苛まれるのだ。
だからこそ、ふと急に、「好き」に自信がなくなるときが時折訪れて、魔が差したように他の方にきゅんとしたり、ときめいたりしようものなら、自己嫌悪と悲壮感に襲われた。
ずっと、人生でただ一人のご贔屓だと誓ったのに、と。(我ながら、重すぎる。)
 
しかし安心してほしい。
ご贔屓マジックはそんなことでは解けない。
ちょっとばかり淡白な時間があったとて、ひとたび、キュートなお写真や、お人柄のにじみ出た文章に触れれば、たちまちとりこである。
そうだった、わたしは彼女のここもここも、ここもここもここも、ここもここもここもここも大好きなんだった…!
ときたま、好みど真ん中の写真などが投下されれば、全身に電流が走る。
あぁ、出会えてよかったと。
 
別に他の方にときめいたっていいのだ。
0か100かにこだわる必要はない。
わたしはずっと、ご贔屓が80~300くらいで好きであり(0・100とは)、それに上乗せして、他の方にときめくのだから。
なんといっても、人生にときめきは多い方がいい。
 
変わっていると言われがちなわたしが、よりいっそう変わり者色を強くしてしまう、それがご贔屓マジック。
一生解けないときめきを、この先もずっと楽しんでいきたいと思う。
 
 
 
ちなみに、推しではなくご贔屓と言い続けたいエゴについてはこちらをぜひ。



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