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ブルース・チャトウィン『ソングライン』世界の歌

歌は土地に名前をつけ、土地の民に歌い継がれて、その地で生き続ける。
マルティン・ハイデッガー「何のための詩人たちか」
オーストラリアに来る前、僕はよくソングラインのことを人に話したが、相手はかならず別のものを思い浮かべた。
「”レイライン”みたいなもの?」レイラインとは、英国各地にあるストーンサークルやメンヒル(立石)や墓地などの、直線的に並んだ遺跡群が描く線のことだ。古代からあるものだが、見る眼を持った者にしか見えない。
中国研究者たちは、風水でいう”龍脈”(大気の流れ)や伝統的な土占いを思い浮かべた。
フィンランドのジャーナリストは、これも線上に配置されているという、サーミ人の”シンギング・ストーン”を持ち出した。

人は知らないものに対しては、自分が知っているものを思い起こすことしかできない。

似たようなものを思うことで理解しようとする。

逆に、ソングラインを記憶術のようなものと受け取った人たちもいた。フランセス・イエィツの名著『記憶術』を読むと、キケロやそれ以前の古代の弁士たちが、頭の中に記憶の宮殿を築く方法をとっていたことが分かる。彼らはまず、演説の各部を建物の特徴ある部位に結びつけたのち、その想像上の宮殿をくまなく歩きまわることで、途方もなく長い演説を頭に刻みつけたのである。そうした部位は”場所(ローサイ)”と呼ばれていた。

記憶の宮殿はシャーロックホームズの話の中にもあった。

しかし、オーストラリアにおける”ローサイ”は頭の中に一時的に築いたものではなく、ドリームタイムの出来事として永遠に存在するものだった。
また別の友人たちは、ナスカの地上絵を思い起こした。ペルー南部のメレンゲのような砂漠の表面に描かれたそれらは、確かに、ある種のトーテムを表したものにも見える。

トーテムとは特定の集団や人物、部族や血縁に宗教的に結びつけられた野生の動物や植物などの象徴のこと。(ウィキペディアより)

この地上絵を守護者を自認するアリア・ライヒェと、心躍る一週間を過ごしたことがある。ある朝、僕は彼女のお供をして、日の出の時刻にしか見られないという、最も壮大な地上絵を見に出かけた。撮影機材を代わりにかついで険しい砂丘をのぼる僕を尻目に、七十代のマリアはずんずん先へ行った。ところが、その直後、僕の横を一直線に転がり落ちていく彼女を、息を呑んで見守ることになった。
骨を折ったかと思ったが、アリアは笑っていた。「父がよく言っていたわ。いったん転がりだしたら、転がり続けなきゃいけないって」

「いったん転がし出したら、転がり続けなきゃいけない」という意味深なことば。

・・・
違う。僕がしたかったのはこんな比較ではない。もうそういう段階ではないのだ。もっと先の地点にいる。
取引は友情と協力を表す。
アボリジニが主に取り引きしたものは歌だった。
ゆえに歌が平和をもたらした。
しかし、
僕は、ソングラインをオーストラリアでしか見られない事象とはとらえていない。
それは人が自分のテリトリーにしるしをつけ、社会生活を築いていくための、普遍的な手段であるように思えるのだ。
世の中で機能しているあらゆる機構は、
原型であるこのソングラインを変形、
もしくは悪用したものだと言ってもいい。

アボリジニが取引したのは歌。

その歌には生き残るためのすべての情報が隠されている。

その歌の情報は先祖からの知恵の結合。

その情報の取引が歌の取引ということ。

そしてまた

歌には先祖の生きた証が残されている。

道の上にその話が歌となって残っている。

オーストラリアの主要なソングラインはみな、大陸の北か、北西ーティモール海かトレス海峡ーから南へ向かって走っているようだ。
それらは、最初のオーストラリア人がたどった道筋であるような、また、その人たちがどこか別の場所から来たような印象も受ける。

かつて大陸が地続きであった頃に、アフリカから移動してきた人類がオーストラリアにも広がっていったのではないか。

中央アジアの世界で一番寒い地域に住む人たちの先祖は、ライオンなどの動物がいた暑いところに住んでいたという。

先祖からの言い伝えが残っているという。

いつごろのことなのだろう?五万年前?八万年前、あるいは十万年前?アフリカの先史時代と比べるなら、年代はそれほど重要でもないのだが。
ここで僕はおのれの信じるところへ飛躍しなくてはならない。ーそれはおそらく、どんな人もついてこられない領域だろう。
こんな光景が僕には見える。

ソングラインが大陸や時代の境を超え、世界じゅうに延びている。

人が歩いたところはすべて、歌の道が残される(いまでもときおり、僕たちはその名残をとらえる)。

これらの道は、時空を超えて、アフリカのサバンナの隔離地帯にさかのぼるものにちがいない。

その地で最初の人類は、
周りの恐ろしいものにひるむことなく口を開き、”世界の歌”の始めの詩句を叫ぶのだ。

「私は!(アイ・アム)」

自分が生きた証を残していく歌。

子孫に重要なことを伝えるために作った歌。

多くの経験をした結果、考えるようになるのは

自分とはいったい何者なのだろうかということ。

そのためにも自分を深く知ることが必要となる。

そう考えると

人間とはいったい何なのだろうかということとなる。

奇蹟的に存在している私たち人間。


これからどうするべきなのだろうか。

ソングラインは

これからも

途絶えることなく

未来に繋がっていくことはできるのだろうか。





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