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曽野綾子『私を変えた聖書の言葉』の「故なき憎しみ」 人を理解することは不可能

「『だれも行ったことのないような業を、

わたしが彼らの間で行わなかったら、

彼らに罪はなかったであろう。

だが、今は、その業を見たうえで、

わたしと私の父を憎んでいる。

しかし、こうして、

〈人々は理由もなく、わたしを憎んだ〉

と、彼らの律法に書いてある言葉が実現した』」(ヨハンネス15・24~25)

・・・

彼らの律法というのは、

ユダヤ人たちの信仰する旧約聖書全体の事であるという。

旧約聖書の詩篇には

「人々は理由もなく、私を憎んだ」(35・19)とある。

ここには、我々が他人に対して犯す典型的な悪と、

我々が他人から受ける可能性のある一つの極限の憎しみの形が

描かれているという。

・・・

自分が憎まれるときには

その理由が自分にあると思いたい。


憎まれる理由が見当たらない場合には

他人が自分を憎むのは不当だと叫びたいという。

・・・

反対に

自分が誰かを憎む時には

故なく憎むことなどあり得ないと考えたい。

・・・

人種差別の多くが

弱い自信のない人たちが

自分は他人よりも上だと考える理由が

皮膚の色くらいしかない場合に持つものであるという。

それでもなお

有色人種は知的に劣っているからとか、

どこそこの国は、本質的に犯罪率が多いから、

という理由付けをするという。

・・・

他人を憎しむことにおいて

正当な理由がない場合に

後から

自分をも納得させる理由を考え出すという

自分の憎しみの正当化を図るというのだ。

・・・

世の中には

故なく、愛される場合と

故なく、憎まれる場合がある。

・・・

そして

私たちには

覚えたる罪と

覚えざる罪があるという。

自覚していない罪があるのだ。

・・・

そのように考えると

自分が正義と信じてすることの中にも

罪が必ずあるということを

十分に意識することが必要となる。

・・・

だから

正義と思ってすることにおいても

いつも頭を垂れ

懐疑に満ちて

自分をも疑いながらすることが必要となるという。

・・・

正義が自信を持ってなされるときに

人間は

必ず大きな間違いを起こしてしまっているということだ。

過去の戦争

残虐な行為

革命という名の殺戮

民族間での闘争

そして

日常生活の中にも多くあると言える。


実に間違いを犯し続けているのが

わたしたち人間である。

・・・

このように考えると

誰か一人だけに責任を押し付けるということ

誰かだけが間違っていたということ

その批判を集中的に一人にするということ

それは間違っていると言える。

・・・

その罪から

学んでいくという事を

目的とするならば

批判だけに終わることなく

謝罪のみに終わらせることなく


では何が原因であったのか

今後どうするべきであったのか


について建設的に考えてゆくことこそ

理性的であり、

実利的な

人間ということができる。


そうすることで

人間は退行することなく

進歩してゆくことができるのだ。


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