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曽野綾子『(私の実感的教育論)絶望からの出発』「子どもは親の思い通りには育たない」自分より始めているか

自分を取り巻く周囲の状況が、悪かったからこそ

これ迄になったのだ、と言う人は世間にはかなり多い。

これは嫌味ではない。実感である。

多くの人は自分に与えられていた幸福にも感謝するが、

同時に不幸にも感謝できるのである。

幸福な状況が人を育てるけれども

不幸な状況でも人を育てることもあるのだ。

この逆説は真実である。

教育は治療と似ている。

医者は薬を与え、手術をして、患者を「癒す」という。

しかし、

医者の中でも謙虚な人々は

「病人が自らを癒す力に、手を貸しただけだ」という。

その証拠に、どんなに人間の力を注いでも、

人間の一生に一回だけは癒らないのである。

その一回は「死」。

教育もそうである。
他人は(親や教師といえども)それに少し力を貸すだけという言い方もできる。

治療も教育も人に手を貸すということなのだ。

手を貸すことかでしかできないということだ。

自らが意欲的に取り組むことができるかどうかが

重要な点であるからだ。

私たちはいったいどうしたらいいのか。
・・・
鉛筆一本に配慮することが、

或る子には親のはげましとうつり、

或る子には依頼心を育てる温床になるのである。

同じことをしても

人の受け取り方によって薬にも毒にもなるのだ。

いったいどうしたらいいのか。
答は誰かが出しているのであろう。
しかし

私は教育の出発点も

このような迷いにあり、

教育の究極も

また迷いにあると思う。

なんとかしたいと

迷うこと自体が教育ということだろう。

勿論、

日常の平凡な生活の中では、

親はできれば一本の鉛筆に、

よくあれと思いつつ「配慮」するのである。

しかし、

自分のしていることを

信じてはいけないと思う。
私は教育の成果は、

人間の予測をはるかに超えたところにある

と思えてしかたがない。
教育の成果を

確実に受け止める部分がないでもないが、

それは人間全体の要素のほんの何分の一かであろう。
しかし、

そのための私たちは努力して悪いわけではない。


未完に決まっている人生を送るために

私たちがあくせくと生きるように、

効果の期待し得ないことに向かって努力するということは、

私のかなり好きな生き方である。
・・・
教育の根本の姿は

自らを教育し続けることなのである。


生きる限り、

(完成しないことを知りつつ)

自分を

自分の理想とする方向へ

一歩でも近づけるようにするという行為から、

全ての教育は始まっているのである。
・・・まず自分より始めているか。

教育とは

まずは自分が懸命にやるという姿勢を見せることだ。

・・・
神父でも普通の人間でも、

今、キリスト者と言われるには

次の四つが必要なのだ、

と中島神父(浦上教会)は言われたのである。
第一は自分自身が、まず他人の手本となるような人物になること。
第二に祈ること。
第三が犠牲。
第四が労働である。

真の人間になるとは

目的意識を持って

努力を続けていくということだろう。

・・・
己を教育しようとしない人は

教育は不可能である、

ということを私は信じている。


しかし

己を教育しても、

更に

教育が間違いなくうまく行くとは限らない。

それでも

うまく行かないこともある。

私はこのようにして

絶望的な出発点に立つのである。

思うようには育たないけれども

そして

思うように育ててもいけないけれども


それでも

懸命に努力することを怠らないというのが

教育ということなのだ。

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