曽野綾子『誰にも死ぬという任務がある』「運命を承認しないと、死は辛い」
人間、誰でも最後は負け戦
私のように、八十代も間近になると、死はすぐ身近な現実として、あちこちに見られる。つまり、あの人も死んだ。・・・そして自分自身も後十年は生きないだろう、という実感が迫って来る。
曽野綾子さんは現在九十歳になられている。ご健在だ。
かつては、私は死ぬ時、私は誰もいない未知の土地に踏み入る自分を想像した。
私は風だけが吹いている、無人の岸辺に立っているようなものだった。
しかし、この年になると、死後の世界は孤独ではない。
あの人もこの人も、既に向こうの世界に着いている。
やあやあ、お久しぶり。
あなたは今日お着きでしたか、という感じだ。
だから来世は無人の岸辺ではなく、私にとって実に賑やかな風景に変わっている。
家族や友人に会うことができるとすると決して孤独ではない。
死の際には一番大切だった人が光と共に自分を迎えに来るという。
私には誰が来るのだろうか?
父親だろうか。
いや
会うことができなかった
おなかの中で死んでいった二人の子だろうか。
会ったことがなくても
誰だか理解できると思う。
ほんとうに会いたかった。
会えてうれしいと思う。
それほどはっきり思うわけではないが、私は少しその心境に近づいている。私は自分を凡庸な人間の運命の流れの中に置くのが好きだった。
だから、私はいつも考える。
人にできたことなら、多分自分にでもできる。
人が死ねたのなら、多分自分も死ねる。
生きている人はすべて死んだのだ。
この地球が発生して以来、四十六億年の間に、生まれた人の数だけ、死も発生したのだ。
人類が出現してからはまだ日が浅いけれども
そこに繋がる生命の繋がりは
眼が眩むほど長い年月である。
・・・
そして
多くの人が死んで行っているので
大丈夫だ、自分も死ねると思う。
父親が死ぬ時、意識はあったけれども、それほど辛い感じではなかった。
動けなくなったからかもしれない。
けれども心臓の動きも、呼吸も次第に緩やかになり
全身の機能がゆっくりと停止に向かっていたので
痛みを感じる脳も鈍くなり
苦痛は感じることなく
死ぬことはできなのではないかと
思った。
それが救いだ。
いつも、言われていることは、人は死を恐れるのではなく、死に至るまでの苦悩を恐れる、ということだ。
苦痛は確かに怖い。
私は七十四歳の時、愛の踝(くるぶし)を何カ所も折るという怪我をした。
手術はすぐにはしてはもらえず、怪我の部分の晴れが引いてから、と言われたが、それまで踝にキルシュナー鋼線と呼ばれる長い金属の棒をヤキトリの櫛のように刺して、それを錘(おもり)で牽引する。
そうすることで外れた踝の骨を正常な位置に保ったのである。
串刺しをする時は麻酔薬を入れてもらえたので、痛みはそれほどでもなかった。
しかし途中で何かのはずみで牽引のシステムが外れた時の痛みは、耐えがたかった。
ドクターが見つかるまで、私は45分間耐えた。
つまり痛みは問答無用の攻撃なのだ。
痛みだけではない。
呼吸困難も、端が切れない苦痛も、吐き気も、臨終についてまわりそうな苦痛はすべて問答無用。
一方的に相手のペースで襲ってくる攻撃なのだ。
私が見ていた痛ましく見えるのは、ことに挫折を知らない人の臨終である。
最後の戦いは、その一方的な勝利と決まっている。
どんなに医療行為を受けても、従順に医師の命令に従った療養生活を続けても、生命を継続する好機は巡って来ない。
こういう状態は、その人にとって、正義、道徳、秩序などすべてものに対する裏切りと反逆に移るのである。
そうなると苦痛の原因は
自分以外のものとなるので
威厳ある人間としての生き様や死に様を示すどころではなく
だれかれ構わず
あたり散らすこととなる。
恥ずかしい有様。
・・・・・・
・・・健康や寿命についても、私たちは平等ではない。
平均寿命まで生きる人もいれば、幼児の時に死ぬ命もある。
私たちキリスト教徒は、幼い子供が死ぬと、神はその子を、そのまま天国に上げると言う。
無垢な子どもは、意識的な罪を犯すことができないから、幸運な死だとするのである。
もちろん無神論者は信じないだろうが、こういうことは大きな慰めだ。
・・・
ギリシャのヘロドトスの『歴史』に出て来る「クレオビスとビトン」の話
アルゴスにいた兄弟であるその二人はヘラの神殿の巫女であった母親のために、牛の代わりに軛(くびき)を引き母親を運んだ際、神に最高の幸せを祈ったところ、宴の終わりに眠ったまま二度二人はを覚ますことがなかった。
死こそ最高の幸せであるという話
・・・
しかし、一生病の床から起き上がれないまま生を送る人もいる。
他人の私たちが痛んでもどうしようもないことだが、その不条理を深く悲しむことは決して無駄だとは思わない。
なぜなら、私にとって、自分の現実であろうと他人の運命であろうと、不条理に打ちのめされることは無駄どころではなく、まさに私を人間として複雑にしてくれる過程のような実感があるからである。
人間社会の医療や福祉を向上させることができるのは、その病気や障害を持った人が存在するということから発達するということだ。
その社会の成熟の広がりは
他の分野にも影響を与えて
さらに
より良い社会になることに貢献する。
そして、地球上のすべての人間が・・・人間として深まることこそ、おそらくこの世が上質なものとなることだろう、と迂遠なことを考える。
そして不条理の原因にもその運命を受けとめてくれた人にも、深く感謝するのである。
様々な人間が存在することで
社会全体が成熟していくことができることに対して
心から深く感謝するのである。
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