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宮沢賢治『注文の多い料理店』序

『注文の多い料理店』という物語の始めに書かれている序文です。

仮名遣いが今の現代文とは違うところがありますが、なんとなく理解することはできます。

ほんとうの大切なもの、大切なこととは何であるかが書かれていますが、何を書いているのか分からないように書かれています。

神聖な言葉は詳しくは書かれず、読む人それぞれが読み取ることができるようになっているのです。

わたしたちは、氷菓子をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろの美しい朝の日光をのむことができます。

物質的な物で満たされることがなくても、自然の中にある素晴らしい透き通った物事を感じることができるのであれば、十分に満たされて生きてゆくことができます。

またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや、羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。

畑や森の中で働く人々の酷いぼろぼろに見える着物は、この世で一番輝かしい価値のあるものとして見えてくるというのです。

わたくしは、さういふきれいなたべものをすきです。

そんな日々の労働に素晴らしい価値があるということや、自然の中にある輝く美しさが尊いというのです。

これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。

賢治の書くお話は、自分で創作したというよりも、みんな林や野原や鉄道線路で、そこに見える虹や月あかりのような美しいものからもらってきたというのです。

ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気持ちがしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたがないといふことを、わたしはそのとほり書いたまでです。

林の中の青い夕方や十一月の寒い山の風の中で、震えながら立っていると、自分の中から湧き上がってくるものを書き出さずにはいられないというのです。

ですから、これらのなかには、あなたのためにあるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。

自分でよく考えて書いたというよりも、何かの力で書いているので、その話が何かの役に立つこともあるかもしれませんが、そうでないかもしれません。

自分でもよくわからないで書いているからです。

けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。

けれども、この小さな物語の何かが、いつの日にかあなたの本当に透き通った食べ物となる、価値のあるものとなる、ほんとうの大切な物とは何かが分かるようになることを願わないではいられないのです。

  大正十二年二月二十日
         宮沢賢治

大正時代のその当時でも、物質的な物が貴重であり、重要なものとなっていたに違いありません。

何を着ているのか、どんな仕事をしているのか、どれくらいの財産を持っているのか、どんな社会的地位にいるのかが、人を判断する目安となっているというのです。

そうではなくて、ほんとうに透き通った食べ物を食べるように、ほんとうに大切なものが何であるのかを理解することのほうが大事であるということなのです。

何を持っているのかではなく、

どのように生きるのかが

大切であるというのです。

その考え方は賢治が信仰していた法華経からきているものもあるとは言えますが、エーリッヒ・フロムも同じようなことを書いているので、普遍的なことなのだと思います。

なかなか当時の人には理解されることがなかった賢治ですが、現代にまでずっと読み継がれていることから、真理をついているものであったことが分かります。

最後には普遍的真理しか残らないからです。

簡単な言葉のように見えるものの中に、深い意味を読み込んでいる「序」の文章です。

透き通った世界が見えるようには、自分自身が透き通らなければ見えないのでしょう。

見えるものだけが見える世界です。

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