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曽野綾子『誰にも死ぬという任務がある』「荒野の静寂」

人間には性格として、絶えず生の希望に燃え続けられる人と、ほっておけば死の視線が向く人とに分かれるように思うけれど、それは先天的な資質であって、変えようもないし、どちらがいいとか優秀とかの問題でもない。
人はすべて自分に与えられたものだけを使い切って死ぬのが一番見事なのである。

自分に与えられた資質を生かして生きることができれば、それが見事に生きたということとなる。

人は生きている限り、自分の内面を充実させて行く。
現代の人々は、・・・自分の内面に開いた虫食い穴のような欠点や空虚には、あまり恐怖を持っていないようである。
私たちは一生かけて死ぬまでその穴を埋めて行くのだ。
・・・立派な人間となって死ぬためである。

ある程度自分の内面が充実していくと、さらに自分の中の虫食い穴のような欠点や空虚が鮮明に浮き上がって見えてくるために、余計に苦痛を感じることとなる。

その苦痛を受け入れ、自分のありのままの状態をそれでよしというまでになると

やっと穴や空虚さが小さくなって

やがてその穴さえ

輝いて見えるようにもなる。

どのようにして穴を埋めるかというと、考える、働く、本を読む、深い悲しみと喜びを知る、というような手段を通じてである。
そのためにはどんな環境が必要か。
私の子供時代と比べても、学ぶ環境は信じられないくらいよくなった。
戦前は本の数も多くはなく、図書館もごくわずかだった。
「心の穴埋める方法」はほとんどが私一人で行う行為である。
確かに働くということは、森の奥で一人で樹木に立ち向かう「樵」のような仕事以外、工場にせよ、事務職にせよ、多くの場合、人と一緒に動くことを意味する。
しかし労働の精神的な目的を見出したり、仕事にあった日々の生活のテンポを作ったりするのは、あくまで自分一人だけの孤独な作業なのである。

自分なりの方法で見つけていくのだ。

自分自身を認めていくということを。

私はいつも、死を迎え易くするのは、自分の生涯に納得を持てた場合だと思っている。
人間だから、いささかの言い訳は常にあるだろうし、地震、津波、火事、自動車事故、先天性の病気などのように、個人が避けることの不可能なものもある。
また自分はしたいと思うことでも、知識、技能、能力、性格などの欠点で、雇用者側から不適切として見捨てられることも致し方ない。

しかし、常識的にいえば、それ以外の生き方は日本のようにどんな選択も自己責任においてできる部分が残されている社会なら、必ずその人なりの納得にいたる生き方はできるはずなのだ。

どんな状況においても

自分さえ自分自身を見捨てることがなければ

十分に生きていくことができる。

選ぶということは、なにがしかの時間と静かな空間が要る、と私は思う。
私な下町の生まれだから下町気質もよく知っている。
人によっては電車の騒音がしないと却って落ち着かないという人もいるし、わたし自身、喫茶店の中で原稿は書ける。
しかしできれば静けさ、それも徹底した孤独な静寂というものの中に、時には自分をおきたいと思うことは始終だ。

静寂の中で自分自身を見つめるという機会が必要なのだ。

自分以外の者の尺度ではなく

自分自身の尺度で考えることが必要なのだ。

それには

静寂が必要ということだ。

シャルル・ド・フーコー神父の『ボンディ夫人への手紙』
タマンラセットの山は、数百キロのかなたまで見はるかすことができる荒野である。
昔からそこはイスラム教徒の遊牧民の土地で、当然のことだが、キリスト教に改宗するようなものは一人もいなかった。
シャルル・ド・フーコーの生涯は、人の世では失敗者であってもいいのだ、という真理を伝えている。

人の世で失敗者であってもいい。

何が失敗なのか

何が成功なのかは

決めることはできない。

自分が決めることだからだ。

彼の死後、その精神は多くに人たちの心を支え、宣教活動が広がったのである。
太陽の輝きがふり注ぎ、永遠の穏やかさと安らぎを見せる一人きりの砂漠で彼は、
「私はこの空と、広大な地平線を眺めるのが好きです」
「ここでは二つの無限を眺めています。のびやかな空と砂漠です」
と書く。
我々人間の、存在、愛、生、平和、美しさ、幸福、我々の時と永遠、心と魂の中に存在するすべてのものを、彼は砂漠に見たのである。

だから曽野綾子は

神に会うために砂漠を縦断する旅に行ったのだ。

シャルルは何度も「calme(静けさ)」という言葉を繰り返して使っている。

魂から虚飾の古い衣をはぎ取り、その心底を見抜くのは神のみだ、という姿勢である。

虚飾を取り除いた時に現れる本当の自分自身。

その本当の自分を自分で肯定することができれば

充分に生きてきたと言える。


もう

揺るぐことのない

本物となっているからだ。

現代はあまりにもこの静寂と沈黙に欠けた時代だ。
音声と饒舌だけは豊富に与えられている。

しかし人間の魂の或る部分は、
しばしば
この静寂の中でしか育たず、
それが永遠への旅立ちの前の死の準備には、
不可欠なもののように私は感じるのである。

静寂の中でのみ

ほんとうの自分自身との対話が

できる。


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