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曽野綾子『生活のただ中の神』「どんな人にも神に命じられた道がある」

人間には、誰にも神に命じられた道があるものだ。


それを運命という人もいるし、


運命に類似するものは一切認めない、

運命は自分で切り開き創るものだ、という人もいる。
人はそれぞれ、自分の選択によって生きればいい。

神のその自由を、「神の愛する子」と言われる私たち人間にお与えになった。

その上で、

わたし自身はごく自然に、

聖書のこの部分(「ルカによる福音書」17・7~10)と同じように感じている。

信仰を持つ者にとって職業に貴賎はないという。

どんな職業も生活の上で必要なものであるから

その職業に貴賎はないというのだ。

しかし

そういう思考そのものが

なくなってきているのではないだろうか。

だからこそ

必要な職業の人には相応の給与が必要となる。

しかし

神の眼はそうではない。


人はすべて取るに足りない神の僕なのだ。

現世の人たちが決めた地位、名誉、上下関係は錯覚にすぎない。

すべての仕事、この世における働きを、すみずみまで知っておられ、それをことごとく正当に見ておられる神の前では、

一国の総理大臣も、

その他あらゆる職業の人も、

全く同じ大切な任務を果たしているのである。

神の前ではどんな人も同じ任務を果たしている。

命じられたことをみな果たせ、

という命令はすばらしく単純でありながら

むずかしい。


「殺してはならない」と言われたから、

私たちは殺してはならないのだ。


「すべての人を愛しなさい」と言われたから、

私たちは意志の力ででも愛さねばならないのだ。

人を愛することは複雑に考えると難しいことなのだ。

まずは

良かれと思ってすることは愛ではない理解することが必要だ。

では

愛するということは

その人がしたいようにさせておくということなのだろうか。

見守るということだろうか。

そうすることでうまくいかなくなる場合もあるだろうに。


そうなると

次は

求められると助けるということだろうか。

助けるにも様々な手段があり

どうすることが大事なのかもよく分からない。


大切な存在なのだという気持ちが相手に伝わることが重要なのだろうか。


気持ちとともに行動することが必要なのだろう。


しかし

その気持ちが持てない場合にも

理性の意志の力で

同じような愛を示すことが必要だという。

これが最も難しいのだ。


しかし

これが

神からの命令であるとすると

案外簡単にできるかもしれないのだ。


自分の意志ではなく

神からの命令だからできるとも言える。


そしてこの二つだけでも全うできたら、

それは

成功した人生であることに間違いない。

そしてその時、

私たちが言うべき言葉まで聖書は教えてくれている。

私たちはその時、静かに満ち足りた思いで言えるのだ。
「私どもは取るに足りない僕です。

しなければならないことをしただけです」
しかしこの言葉はなんと偉大なのだろう。

偉大なことをしているのにかかわらず

軽快に

「しなければならないことをしただけです」と言う。


それは

実に高尚な生き方となる。

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