曽野綾子『私の中の聖書』の「民衆の叫び」 衆愚とならないために
(要約)
最後の晩餐からゲッセマネの園へ
そして大祭司のところへ連れてこられたイエス。
その後、イエスは衆議院において昂然と「神の子である」と言う。
群衆は立ち上がってイエスを
ローマ帝国のユダヤの総督であったピラトのところへ連れていく。
ピラトは「わたしはこの人に何の罪もみとめない」(ルカ23・1~5)
と言ったが
群衆がイエスを攻めたてる勢いは止まらなかった。
ピラトは
ガラリヤとペレヤの領主であったヘロデ・アンティパスが
エルサレムに来ていたので
イエスを送りつけた。
ヘロデの前では奇蹟も行わず、質問にも答えなかったので
イエスをピラトのもとに送り返した。
「ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言った、
『お前たちはこの人を民衆を惑わすものとして
私のところに連れてきたので、
お前たちの面前でしらべたが、
訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。
ヘロデもまたみとめなかった。
現に彼はイエスをわれわれに送り返してきた。
この人はなんら死に当たるようなことはしていないのである。
だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう。』
ところが、彼らはいっせいに叫んで言った。、
『その人を殺せ。バラバを許してくれ』
このバラバは、都で暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていたものである。」(23・13~19)
当時ユダヤ人の過越祭の時には獄中の囚人の一人を釈放する習慣があった。
「ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度彼らに呼びかけた。
しかし、彼らは、わめきたてて、『十字架につけよ、彼を十字架につけよ』と言いつづけた。
ピラトは三度目に彼らにむかって言った、
『では、この人は、いったいどんな悪事をしたのか。
彼には死に当たる罪は全くみとめられなかった。
だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう』
ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、
イエスを十字架につけるように要求した。
そして、その声が勝った。
ピラトはついに彼らの思いどおりにすることに決定した。
そして、暴動と殺人のかどで獄に投ぜられた者の方を、
彼らの要求に応じてゆるしてやり、
イエスの方は彼らに引き渡して、
その意のままに任せた。」(23・20~25)
無責任な扇動にのりやすい現代人そのままの姿であり、彼らは正しいと信じて正義の叫び声をあげているつもりだった。
・・・
衆愚は二つの事から起こるという。
一つは、自分で調査してその原因を突き止めようとしない怠惰。
二つ目は、他人と違っている意見を表明することができない勇気のなさ。
・・・
自分の意見を自分でよく考えて持つことができなくなる時
みんなが言っていることをよく考えることもなく支持する時
自分というものが集団の中でなくなってしまう時
衆愚というものとなる。
個人が間違うというよりも
むしろ
集団の中での同調圧力が働き
間違った方向へと向かってしまう危うさとなる。
現代においても
変わらずその傾向はある。
何が重要なのか
何が優先されるべきなのか
自分の頭でよく考えることが必要だ。
流されることなく
正確な情報とともに
冷静に思考することで
衆愚から遠ざかることができる。