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曽野綾子『(私の実感的教育論)絶望からの出発』相手の立場

社会とは苛酷なもので、人間関係の殆どは利害の対立する立場におかれる。あらゆる商行為においては、常に一方が損をすれば片方が儲かるという例がほとんどである。

今は

どちらにも益がある方向で

交渉が成立するようになってきている。

また

顧客優先の姿勢の企業でないと

生き残れないようになってきていると言える。

情報化社会だからだろうか。

一見どれほど明らかに、一方が正しく、一方が悪いように見える人間関係に於いても、悪をなした側にも、どこかに納得できる部分がある、というのが、私などの考え方である。
しかし、

私はこの年になって初めて、

世の中には、自分と一定の他人だけは全面的に正しく、

そうでない人は全面的に悪いのだ、

と言い切れる人がかなり多いことに気づいたのである。

自分の側だけが正しいという人だけが

自信を持って

人を非難することができる。


その非難する要因が

自分の中にもあると理解できると

そうできなくなるのに。

全面的に良き人間も、全面的に悪い人間も、この世にはまずいないとみてよい。
人間は誰もが、部分的によく、部分的に悪いだけである。

人間の中には

良い部分と悪い部分のどちらもあるということだ。

また

良いと思っていることが

違う角度から見ると

そうではなくなることは多くある。


とにかく人間というものは

複雑なのだ。

「ひとのふり見て、我がふりなおせ」などという古い言い方は、この頃はやらなくなったが、誰もが他人の欠点の中に、自分と同じ要素を見出し得るのである。
と同時に、「極悪非道」と言われる人の中にも、どこかの小さく微かに輝いている部分は必ずあるのである。

この考え方から曽野綾子さんは

『天井の青』を書いた。

ところが、これを認められない人はいくらでもいる。

認めることができないということは

複雑に考えることができない

もしくは

あえてしない

ということだろうか。

限られた一回限りの自分の生の中から、

どこ迄他人の生活・他者の心を類推し得るかが、

どれだけ複雑のより多くの人生を味わい得るか、

ということになる。

そして

自分も間違えるから

相手も間違えたら

お互い許し合うという姿勢が

穏やかな人間にしていく。


何事もお互い様なのだろう。


この単純なことが

現実においては

実に難しいのだ。


どうしてなのだろう。

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