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サマセット・モーム『サミング・アップ』人生の意味

サマセット・モームは、古典的哲学書を読んだ後、現代の哲学書を読み進めていった。

しかし、哲学者の間に見解の一致は見られず、他の哲学者を批判している部分には納得できると思ったが、建設的な部分には、どうしても賛成することができなかった。

哲学者たちは、その学識、論理性、分類能力に拘らず、みな理性の導かれてそれぞれの信念を抱くようになったわけではなく、生来の気質によって信念を押し付けられたのだという印象を受けた。

人間の考え方は、生まれ育った環境、宗教によって大きな影響を受けているということだ。

こうして神の存在と来世の可能性を、自分の行動に何らかの影響を与えるには疑わしすぎるとして退けるならば、人生の意味と役割は何であるのかについて、心を決めなくてはならないだろう。
もし死がすべてを終わりにするのなら、また、もし善を望み悪を恐れる必要がなければ、何のために自分がこの世にいるのか、そうした状況でどのように身を処すべきか、しっかり考えなくてはならない。
こういう質問の一つに対する答えは明らかであるが、不快なものなので、大抵の人は直面することを避ける。

人生には理由なく、

人生には意味などない。

これが答えである。

我々は数限りない星雲の一つである銀河系に属する小さな恒星の一つである太陽のそのまた周囲を回転している小さな惑星である地球に、ごく短期間の間だけ生きている存在である。
地球だけが生命体を住まわせているのかもしれないし、宇宙の別の部分では他の惑星が膨大な時間の間に人間が創造されてきた現素材を生むのに適当な環境を形成する可能性を持ったのかもしれない。
もし天文学者が真実を述べているとすると、地球はいずれ生物がもはや存続できない状態になる。
その時が来れば、ようやく宇宙はもはや何も起こりえない最終段階に達することになる。
この何兆万年前に人類は姿を消してしまっているだろう。
そのとき、人類が存在したことに意義があったと考えることがあり得ようか。
宇宙の歴史においては無意味な一章だったことになるだろう。
太古の地球に生息した奇妙な怪物の生息史が書かれている章と同じように無意味である。

人生には理由はなく、また人生には意味はないと言い切っている。

よく考えると自分が今存在することがなくなったとしても、

地球規模、日本の規模、住んでいる地域の規模においては何ら影響はない。

悲しいと感じてくれる身近な家族がいるだけである。

偉大な功績を残した人がいなくなった時には大きな損失と感じるかもしれないけれども、やがて他の人がさらにその功績を推し進めてゆくだろう。

またその功績が今後否定されることとなるかもしれない。

どうなるのかは分からないけれども。

つまり

どうしても必要な人というのは社会においていないということだ。

全てのことは他の人が代わりにできてしまうからだ。

そう考えると自分の人生にはそれほどに意味はないとも言える。

しかし

大丈夫、それほど負担に考えなくてもいいのだという

人生に対する重荷を軽くしてくれる言葉と捉えたい。

こういうことが自分にどういう違いをもたらすのか?
自分の人生を最大限に活用するには、こういう環境にどう対処すべきか?
自分自身に問いかけなくてはならない。
ここで問いかけているのは私ではない。
私の中だけでなくあらゆる人の中にある、自分の存在を保ちたいという渇望が問いかけているのである。
エゴイズムの声である。
最初にボールを転がし始めた、遠い太古の昔のエネルギーから人間すべてが相続したエゴイズムである。
換言すれば、
どの生物にもあり、生物を生かしている、自己実現の欲求の声である。
人間の本質と言ってもいい。
その欲求の充足は、スピノザが人間が望みうる最高のものであると言った自己充足である。
というのは、「それ以外の目的のために自己を保存しようとは努めぬからである。」
意識というものは、本来は人が環境に対処するために道具として与えられたものであろう。
歴史の長い期間、意識は環境に対処するのに必要な程度しか深まらずに推移したようである。
しかし、意識はその後直接の必要を満たす程度を超えて発達し、想像力の登場とともに人は環境を広げて目に見えぬものまで包括するようになった。
人がそのころ自分に問いかけた質問にどのような答えをしたかは分かっている。
すなわち、自分の内部で燃えているエネルギーが激しいので、自分の意義に疑いをいだくことが出来ない、と言うのであった。
自分のエゴイズムがあまりに包括的であるので、自己の消滅の可能性など考えられない、というのである。
多くの人は、いまだに、こういう解答で満足しているように思える。
その答えが人生に意味を与え、虚栄心に喜びを与えるのだ。

つまり、生きるために生きるということ。

生きているから生きるのだ。

生きていること自体には奇蹟であり価値があると思う。

生きているということに価値がある。

何かの目的のために生きるというのではなく

ただ生きていることを愛おしむ。

大抵の人はものを考えることをしない。
この世における自分の存在を当然として受け入れる。
頑張って生きるのだと自分に言い聞かせ、生来の衝動を満たすために、あちこち引きずり回され、年を取り力がなくなればろうそくの火のように消えて行く。
彼らの生き方は全く本能的だ。
もしかすると、その方が賢い生き方なのかもしれない。
だが、自分の意識が発達したため、常にいくつかの質問に追いかけられ、しかも従来の解答では満足できない場合はどうしたらいいのだろう。
どういう解答をしたらいいのだろう。
こういう問いには少なくとも一つに対して、歴史上の最高の知性を持った二人がそれなりの解答をしている。
その答えを吟味してみると、二人とも大体同じようなことを述べているのだが、私にはあまり立派な答えとも思えない。
アリストテレスは人間の活動の目的は正しい行為であると言い、
ゲーテは人生の秘密は生きることだと言った。

何かを成し遂げようとする時には焦燥感があると思う。

焦燥感があることで目標に到達できることもある。

一方

落ち着いて考えると

そう焦ることもなく

日々の小さな喜びや幸せに気づくことが出来れば

大きなことを成し遂げなくても

実際に生きている意味があり、

充実感を持つことができる。


幸せの定義の転換期がやってきている。

何が大切なのか。

どうすることが幸せなのか。

人生の意味はあるのか。

あるとしたらそれは何か。

時代の成熟とともに

価値観も変化していく。

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