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曽野綾子『魂の自由人』「もしも私がライオンだったら」

何が自由だと言って、刑務所に収監されないことが一番自由だ、と実は私は素朴な思いを持っている。

友達は、あなたの発想はいつも極端すぎると言うが、私は刑務所の生活を「実感」できないまでも、本を読み、想像して、自分がいかにそれよりましな生活をしているかを考えて、心底幸福になれるのだから、それでいいように思う。

現実生活は自由に生きているという実感を

多くの想像で得ているのだ。

英語で昔仮定形というものを習った。
「イフ=もしも、私が何々であったなら」という形で、あり得ないことを考える場合に使う特殊な用法である。
その時によく使われたのは、「イフ・アイ・ワー・ア・ライオン(もし私がライオンであったなら)」という例文だったように思う。

当時私は抽象的な芸術の存在など知らなかったから、自分がライオンのなったことを想定して成り立つ小説があるとも思わなかった。

本当に私がライオンになってしまった、という小説では仮定形は使わなくていいのだと思うのだが、英文法はそういう時、妄想という名の実感を優先するのか、それとも、動物学的分類が文法を支配するのかわからない。

ここでの疑問は、英語では主語が人間であるのか動物であるのかによって使う単語が違うということだろうか。

・・・

高等教育を受けていても、この仮定形のことをよく考えることがない事態となっているという。

・銀行の不良債権の多さは、金融の専門家が経済の潮流が変わった時には、どうなるのかを考えずに仕事をしてきたからだという。

・豪華客船に乗ると出港して一、二時間以内に避難訓練がある。船が事故に合って沈没する際においての訓練をするのだ。

・犯罪を犯すとそれに応じた罪となることを知ることは、犯罪を犯す際の抑止力にもなる。

・電車を止めてしまうと生じた損害が請求されることから、家族に迷惑をかけないためにもそうならないように考えることとなる。

教育を受ける機会のない人の多い国では予測の欠ける行為というものが多くあるという。

やってみなければ予測がつかない、というのはまことに不自由なことである。
これこそ魂の自由人ではない。


人はあらゆる現実でないことを「暇な時に」考えておけることが自由を確保する方途なのである。
およそ、演習や訓練などと名のつくものから、すべての法、制度、システム、あるいは科学的発見、哲学、文学、戦術、外交、すべて仮定する力によって成り立ち、存在し、発展するのである。

つまり、その力がある限り、私たち人間は現実よりもっと広い精神の分野を自由に歩くことができるのであって、実際に自動車を岩にぶつけて車を大破させてみなければ結果は分からない、という愚かさに悩まされなくてすむ。
途上国への援助は、実にこの予測できない人々が多く住んでいる実情との戦いに始まり、戦いに終わると言ってもいい。

曽野綾子は海外邦人宣教者活動援助会というNGOで三十年以上働き、その事業の申請に対しての働きの確認のために現地にまで行っていたのだ。

そうしないと本来の目的のためには使われず、権力のあるものから順に、その人たちの懐に資金が流れてしまうことが多かったのだろう。

・・・

・エイズの恐ろしさは知っているけれども、無知が故の恐怖心が非常に大きく逃げ出す家族もいた。

・では病気の予防に対しては熱心かというとそうではなく、一人がエイズの感染すると、多妻制の家族ではたちどころに感染させてしまっていた。

・インドでも高利貸が言葉巧みに法外な利子を付けて人を騙していた。

・日本でも高利の儲け話に酷い目にあう人はいたのだ。

仮定形に慣れ、その結果を予測する力があれば、人生の不当な夢は抱かない。
人に対して過大な期待もしない。
安全を信じない。
人間関係に失敗した時も踏み留まることができる。
社会と地球の不合理をさして驚かず楽々と受け入れることができる。
死を日常生活の視野の中に常においておける。
その結果、
私たちはそれなりの自由を手にするのである。

何事に対しても過剰な期待をすることなく

むしろ最悪な事態を仮定することで

裏切られた際にも

酷く落ち込むということを防ぐというのだ。


多くの期待からの

失望の結果への転落が

私たちの心を壊してしまうからだ。


常に起こりうる最悪の仮定をすることで

それなりの魂の自由を得ることができるというのだ。

厳しい生き方だ。

けれども

それは

最悪ではなくなる。

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レモンバーム17
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