のんきな父親
書き始める時に「ご自由にお書きください」とうっすら入っているのが好き。
今日は「抽象的な自己紹介」からのつづき。
「ますます抽象的な自己紹介」を書いていく。
私は、幼少期から「自由」を渇望していた。
日々の生活において、誰と遊ぶとか、勉強するとかしないとか、そんな事を束縛されていたわけではない。多少一人っ子特有の親の心配などはあったかもしれないが、その程度。
私が束縛されていたのは「未来」だ。
未来において、束縛されていたのは2点。
母親からの
「教師か公務員になれ(両親はそのどちらでもない)まずは、地元の国立大学に行け」
「家を継げ(継ぐものなんて何もない、田舎の土地とか家、価値なし)=親の面倒をみろ」
この2点が私を何年も苦しめたのだ。
家とは母の実家であり、父は婿養子である。つまり継いでほしいのは自分の実家である。
今ならわかる(ような気もする)。
このベースには「不安」があり「子供の将来を思うが故の不安」と「自身の保身の不安」である。もしくは「この家(一族?)にさえ居れば安心だ」というある種の呪縛でもあったかもしれない。
しかし若さゆえに理解できず、まさにドロドロ韓国ドラマさながらの親子喧嘩を繰り返してきたのである。
それはもうヒステリックに。
「将来」という目に見えないものへのレールを引かれれば引かれるほど、私の車輪はどんどん脱線したくなる。
もう今時こんなセリフ言えねーなって思うけど、
「私の人生、自分で決める!」
あついね!
韓国ドラマなら、一族の「長」が出てきて、「一族たるもの」といった感じでおさめてくれたかもしれない。
もしくは時代劇なら「この紋所が目に入らぬか」的な感じで「喧嘩両成敗」と素敵な金言を個残して「一件落着」となるであろう。
しかし、我が家は違った。
登場したのは、なんと「のんきな父親」だ。
この「のんきな父親」は平たく言うと「のんきな事が唯一で最大の長所」であるような人であった。
どんなに母子が喧嘩をしていようと、のんきにビールを飲み、
「まあまあ、好きにすればいいんじゃないか?」とだけのんきにポロリ。
しかし、これが私にとって「唯一の希望」
母の価値観からの解放を表す一本の糸だったんだ。
この父親がのんきに「まあ、仕方ないよ、好きな大学へ行きなさい」と
「のんき」に貫いてくれたから、家を離れ好きな大学へいった。
この「のんき」な父親がいたから、結婚後も家を離れている。
一度だけ父が私に言った事がある。
「お前の性格が強くて良かった。あの母さんを跳ね飛ばす力があってよかった」と。
今思えば、あれが父の「母の攻略法」だったんだと思う。
もしくは、それが「婿養子」の「処世術」だったのかもしれない。
家の周り全員母方の親戚。
そんな場所では、
真っ向勝負をしても婿養子には勝ち目はないのだ。絶対に。
そして、私は、共同養育を進めるコンサルタントとしても仕事をしている。「離婚しても親は二人」を伝えているのだ。
何故やるのか?
私は、父が居たからこそ救われた。
親として二人以上の人間がかかわり続ける事の価値は「子供にとって」大きいのではないかと考えている。
価値観だから正しいでも間違っているでもない。
「否定されたり肯定されたりしながら、自分の意見を作っていくプロセス」
このプロセスの幅を広くするのが、複数人のかかわりである。
我が家も「母が間違っていて」「父が正解だった」わけでもない。
母は3年前に亡くなった。
今はもうあんなに戦った事も笑い話だ。
そして「会社員に耐え切れず独立した」のは母のおかげかもしれないと
どこかでうっすら思っている。
つまりは、長い目で見なければ何もわからない。
もはやダメな母と、のんきな父でもない。
見方をかえれば「子供の反骨精神をはぐくんだ母」と「無関心な父」だったかもしれない。
ただの考えの違う二人が、かかわる事が大切だと言いたいだけだ。
それを伝えるのが私の共同養育コンサルタントとしての役割でもあると考えている。
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