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【書く理由】新しい物語を紡ぐために

書くチャレンジのテーマに沿って文章を書いているうちに、書きたい気持ちが湧いてきた。
テーマに沿って書いていると、テーマ以外のことが書きたくなる。制限があるところから、欲求はうまれるものなのかもしれない。


わたしが文章を書く意味

について書きたいと思う。

文章を書いて発信する理由は、専門知識を広めたい、収益をあげたいなど、人によってそれぞれだと思う。ハッシュタグ#noteの書き方 を見ていると、いろんな理由があるんだなと感心した。

そのうえで、わたしが書くことで得ようとしている効果を書いていきたい。

わたしが自分の気持ちや、今までのこと、これからのことを書く目的の根拠は、ナラティブアプローチにある。

ナラティブアプローチは、人が人を支援するときに使われる理論・技法のひとつだ。以下、引用。

社会構成主義の考え方を根底に、人々が語る人生の物語(ナラティブ)に焦点を当て、心理的治療を行う手法。支援者は、問題が染み込んだ主流の物語に耳を傾け、問題を人から切り離し、共同で物語を解体する。その後、新しい真実を発見し、それらをつなげて別の物語に書き換えていく。
社会構成主義では、現実は最初から決まっているものではなく、社会の中で、言葉を介して人々が意味づけし、つくり上げていったものと捉える。つまり、唯一の絶対的な現実はなく、社会によって構成された、相対的な現実がいくつも存在していると考える。
利用者が持ち込んでくる主流の物語は、ドミナントストーリーと呼ばれる。ここには精神的な悩みや苦痛、あるいは過去の失敗や劣等意識など、おおよそ否定的な問題が染み込んでいる。そして彼らはあたかも、それだけが自分を語る唯一、真実の物語であると信じ込んでいる場合が多い。
ドミナントストーリーを集めたアルバムには、「失敗」や「問題」というタイトルがついているため、同じ意味付けの写真で埋まっている。逆に、他の意味をもつ写真はドミナントの意味づけに馴染まないため、脇に寄せられ、忘れられ、いつしかドミナントの支配下に置かれていく。
また、ドミナントストーリーは、分厚くなるに従って影響力も増していく。「自分はいつも失敗してきた」という物語に支配された場合、人々は自分自身をも失敗と評価し、将来の行動さえも回避してしまう。
主流のストーリーができあがる陰にはその意味に合致しない出来事がたくさんある。これらは物語として選ばれることも、つなげられることもないままになっている。
オルタナティブストーリーは、ドミナントストーリーに代わる新しい物語である。それは利用者が自分自身で語り、見出すものであり、何より彼らの希望する生き方に合致するものである。オルタナティブストーリーをつくり上げるのは簡単ではないが、完成した物語は、人々の生活に新しい可能性を与える。

ソーシャルワーカーの力量を高める理論・アプローチ|川村隆彦

簡単にまとめると、

自分の人生を語る唯一の真実の物語は存在しない。人は自分のつくり上げた意味づけに合った記憶のアルバムを作り、それに馴染まないものは忘れる。そのストーリーが否定的だと、自分のことも将来の行動もマイナスに捉えてしまう。自分が信じるストーリーに馴染まないものを掘り下げて、新しい物語を自分自身で見い出し、つくり上げると、その物語は新しい可能性を与えてくれる。

社会福祉士試験でこの理論に出会った。
それ以来、この理論はわたしにとって単なる知識ではなく、これからの希望になっている。

わたしの希死念慮や絶望は、この理論でいうところのドミナントストーリーによって作られていた。

「今までこうだったのに急に良くなるはずがない」
「子どもの頃に起こったできごとが結局のところだれに非があったのかわからない。」
「わたしが悪かったのかもしれない。だとしたら、これからもおなじことが続くんじゃないか」
「ありのままの子ども時代に愛されなかった。いまは取り繕っているけれど、ありのままを見せたら、同じように愛されないんじゃないか」
これらはぜんぶ、「なにかしらの非があって、愛されなかった、大切にされなかった自分」というストーリーにもとづいていた。


母は幼い少女のような人だ。必死で子育てをしていたのだろう。母の状況に置かれたとき、わたしがうまくやれる自信はない。
それに、同じ家庭で育った兄弟は、母と一緒に住んでいる。わたしだけが母を受け入れられないのは、私にも非があるんじゃないかという気持ちがぬぐえない。
非として思い当たるのは、思い込みが強く納得できないことには従えない性格や、物事を考えこみすぎる性格、父と仲が良かったこと、自分と違う価値観を持つ母を受け入れられないこと。
自分の性格が原因のひとつだとしたら、家庭での自分は絶対に愛されないと思っていた。

ナラティブアプローチは、支援者が利用者の語りに耳を傾け、利用者が自ら新しい物語をつくり上げるのを支援する。

わたしの場合、語りに耳を傾けてくれる専門家はいない。
いるのは、夫から見た「愛する妻としてのわたし」を見て言葉で伝えてくれる夫と、新しい物語を書こうとする自分だ。
夫の言葉は、夫のもつ「当たり前に妻を愛して、当たり前に自分も愛されて、家族として大切に暮らしていく」という物語に沿った言葉だ。わたしの物語とはちがう。
その物語は、わたしにとってとても魅力的で、同時に簡単には信じられない物語だ。

ひとは知らないものよりも、慣れ親しんだものを好む傾向にあるという。もっと高品質な新商品が出ていると知っていても、いつも使っている商品をつい手に取ってしまうように。新しい物語を信じていくことは、難しい。怖い。悲しくても辛くても、もとの物語の方が楽だ。新しい物語を信じるには自分になんども言い聞かせなくてはいけないけれど、もとの物語はなにもしなくても簡単に信じていられる。


でも、25歳になって、節目の年を迎えた時、嫌気がさした。
倍の年月を生き抜いたとき、わたしは50歳だ。いまとおなじように気分の波にもまれてじぶんと周りを傷つけて、頻繁に落ち込んで周りに気を使わせて、そのたびに胃痛に苦しんで、眠れなくてこわばった体で腰痛に苦しんでいるとしたら。わたしがもし親になって、このままの行動をとったら子どもの心をひどく不安にさせるだろう。わたしも虐待をする側になるということだ。一番なりたくなかった姿だ。
わたしの憧れる50歳は、自分のご機嫌は自分でとって、聞かれてないのにたくさんしゃべらない、柔軟にアップデートする人だ。健康で、毎日を楽しんでいて、優しく厳しく見守ってくれる。そんな師と呼べる人たちに出会って憧れてきた。その人たちの年齢に近づいたとき、わたしはそうなれない気がした。下手すると、父と母の嫌なところを凝縮した人間になってしまう。
そこまで想像したとき、

「このまま、今までと同じだけの長さの人生を生きるのは無理だ」

と思った。

それからは、希死念慮と一緒に、新しい物語が欲しいと思うようになった。さいわい、ナラティブアプローチについて知っていたことで、その物語はじぶんで見い出し、語り、つくり上げるしかないと理解していた。誰かにやってもらうわけにはいかないのだ。
実際、じぶん以外の誰かがどんなに素敵な物語で語ってくれても、わたし自身が信じている物語は、すべてに勝る。「どうせお世辞でしょ」「そんなこと言ってくれるのは今だけ」「何も知らないから」とすべて打ち消して、忘れてしまう。


夫の物語に沿った事実を確認すれば「そうだよ」と答えてくれる。逆に、わたしが確認行為で「どうせずっと一緒に暮らしていったら、わたしのことなんて大切にしなくなるんじゃないの」と言うと怒らせてしまう。新しい物語を作るために、相手に言わせるのは、関係を悪くするし、どうせ打ち消してしまうと分かっている。

じぶんで新しい物語をつくり上げるしかない。

そう腹をくくった。

長々と脱線したけれど、

新しい物語を作る、記録する。これが、わたしが文章を書く理由だ。


目に見えるように書き残すことで、記憶にも記録にも残る。いろんな角度から、新しい物語の視点で物事を見て、前向きな気持ちを書くことで新しい物語をじぶんに刷り込む効果を期待している。刷り込んで当たり前になれば、昔のことと、いまの自分の間に距離を作れる気がする。

いまはまだ、「新しい物語はこういう物語です」とはっきり言えない。もとの物語はかんたんに説明できるのに。まだ夫の物語にのっかっている状態だ。のっかった状態でいるために、noteを投稿し、マイノートを書き、夫の物語に沿ったことを口にする。そうすることで保っている。長く続けば、慣れていけることを期待して。

どんな切り口で記事を書いても、最終的には「未来は明るい」「これからは大丈夫」というところに落ち着くような文章を、これからもたくさん書いて新しい物語をつくる。これがわたしの書く目的。

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