熱帯A
熱帯Aとの出会い
『熱帯』の発売から少し日が過ぎたある日、私は行きつけのバーでジントニックを飲んでおりました。そのバーは時々森見先生もご来店されるようで、森見ファンのお客さんも多いのが特徴です。その日はたまたまお客さんも少なくマスターと色々お話していたのですが、ちょうど『熱帯』の話になった際に、マスターからある一冊の本を手渡されました。
「白石珠子さんという方から、『熱帯』に興味がある方に渡して欲しいと頼まれまして…詳しいことは分かっていないんです」
夜の翼巡りで私は壮大な冒険をし、その話をマスターと語り合っていましたので、どうやら私が『熱帯』に詳しい方だと思われたのかもしれません。当時『熱帯』を一読はしたものの、今までの森見作品に比べて物語の構成が複雑で、私の頭では理解が追いついていませんでした。
マスターから手渡された『熱帯』(ここでは通常の『熱帯』とは区別するために『熱帯A』と記載します)を手に取ると、その奇妙な違和感にすぐに気づきました。まず『熱帯A』は深緑色をした革製のブックカバーに包まれており、表面には金色の文字で「熱帯 佐山尚一」と印字されていました。恐る恐る『熱帯A』を開いてみると、そこには森見先生の『熱帯』とはまた少し異なる、佐山尚一独自の『熱帯A』がありました。加えて以前の持ち主(おそらく白石珠子さん)のコメントや暗号解読の軌跡が存分に記されており、それはまさしく『熱帯』の異本ともいうべき作品でした。
すでに『熱帯』をお読みになった方ならばお気づきかもしれませんが、白石珠子、佐山尚一いずれも『熱帯』に登場する重要な人物であり、その方々が実際に存在するかのような錯覚を覚えました。ですが実際に白石珠子さんから『熱帯A』は届きましたし、佐山尚一独自の目線で『熱帯A』は記されています。これはいつの間にか私が熱帯の世界に飛び込んでしまったのでしょうか。マスターにこの奇妙な現象をお話ししても、
「私にはわかりかねまして…」
と答えるばかりで、なかなか手がかりが見つかりません。
仕方がないのでその日はマスターに『熱帯A』のお礼を言ってバーを後にし、自宅でゆっくりと読み進めながら何か解決の糸口を見出そうとしました。
熱帯Aの謎
自宅で『熱帯A』を読み進めると、いくつか気になる書き込みやしおりを見つけました。
この書を手にし者
謎を記し
次なる旅へと「熱帯」を誘え
虎のもとへとこの書が届くことを願い
この記載から私は次のように解釈しました
1.『熱帯A』は人から人へ手渡されることで旅をする、私もいつか手放さなければならない
2.『熱帯A』を手渡された人たちは、そこに自分自身の解釈や新たな謎を記さなければならない。その結果、唯一無二の『熱帯』が作られていく
3.最終的には虎(おそらく何かの比喩表現)のもとへこの書を届ける必要がある
虎が何を意味しているのか、私はこの熱帯を生み出した森見先生だと考えたのですが確信が持てず、その解釈は受け手側の自由に委ねることにしました。
また私自身もいくつかの書き込みや謎を残し、『熱帯A』を次なる旅へといざないました。
この本の趣旨をきちんと理解していただき、かつ『熱帯』に興味がある方が良いと考え、私は熱帯に詳しいとある方にこの本をお渡ししました。
熱帯Aのその後
その方とは『熱帯A』をお渡ししたきりお会いしておりませんので、その後『熱帯A』がどのような方々のもとに届き、そしてどのような書き込みがなされたのか、私は存じ上げておりません。
もしかすると印字された文字も埋め尽くすほど膨大な書き込みがされているかもしれませんし、海外に持ち出され、文字通り熱帯地方に異国の書物として大事にされているのかもしれません。はたまた『熱帯』が森見先生のもとから忽然と姿を消したように、『熱帯A』も行方不明となっているかもしれません。
しかしどのような経緯を辿ろうと、人から人へ手渡されるにつれて、それが1つの新たな物語を紡ぎあげていくことに変わりはありません。
『熱帯A』が再度私のもとに戻ってくることがありましたら、その1つ1つの物語をじっくりと紐解き、私の知らない新たな『熱帯A』を思う存分楽しみたいと考えております。
それが『熱帯A』を生み出した者・編纂を加えた者に課された責務であるのです。
最後に、あの一文を記してこの文章を締めくくりたいと思います。
かくして彼女は語り始め、ここに『熱帯』の門は開く。