歌詞の向こうで泣いているきみがいた
-いつからだろう、人に囲まれ過ぎていく日常に孤独を覚えるようになったのは。
傾いた陽がオレンジ色に街を染め上げ、建物全体が淡い熱を帯びたように濃淡な影を描く。生命のない”ただそこにあるだけ”の無機質なビル群は均一的なリズムを持って一日の終りの光を反射する。その無機質で均一的な光景のもとで、人々が足早に家路へと帰っていく。
過ぎ去っていく不規則な人の足踏みと、真上から静観する巨大な建物。
人々の生活と巨大な装置が共存するようなその異質な光景も今では見慣れ、人々の群れに混じって歩く。
ここではすべてのリズムに乗り遅れてはいけない。他の人と違うことをしないという、確信に近い何かを抱いて今までそう生きてきた。
でも、今日はなんだか無性に切ない。
美しい陽が無機質な街と無表情の人を染め抜き、目の前に広がる光景が早送り再生のように流れていく。足が横断舗装の上で止まる。
私はいま、どうしてここにいるんだろう。
*
上京したての頃、この機械的に過ぎていく日々のなかで多くのひとの生活が営まれているという事実が信じられなかった。緑の生い茂る山々でのびのびと育った私に、母が独り言のように呟いた。
「東京はね、楽しいけれど孤独を感じる街なのよ」
「人がたくさんいるのに?」
少しの間があって母は小さな息を漏らした。とても長い時間のように感じられた。
「人がたくさんいる、から」
そう言った母の瞳のゆらぎを今でもはっきりと覚えている。そして、今ではその意味が何となく分かるような気がする。
夢だった歌を歌う仕事につくことを諦めきれず、内定が決まっていた地元の不動産会社を辞退し、上京を決意した。地元の友達はお守りまでくれて応援してくれたけど、現実はそう甘くはない。
4畳1間の古びたアパートの一部屋をなんとか借り、アルバイトの掛け持ちで学校に通うための資金をためた。自分の生活に余裕なんてなく、切り詰めたお金でなんとか生活を送る。レストランで楽しげに食事をしている人々や同年代くらいの着飾った女の子たちを見ていたら無性に悲しい気持ちになったが、正直外に意識を向けている余裕なんてなかった。
アルバイトを終えて深夜に帰宅し、流し込むように食事をして倒れるように眠りにつく。SNSやテレビを見る暇もなく、アルバイトと睡眠を繰り返す生活だったため、同期の会話についていけないこともしばしばあった。歯車のように回る忙しない日々のなか、合間を縫って誰もいない路上で歌い、疲れた頭でありきたりの歌詞をなんとか描き続けた。
そんなネジで巻かれたような同じ日々を繰り返し、気がつけば2年もの月日が流れていた。
「あのさ、現実見なよ」
ジョッキを握った手の甲に冷たいしずくがつう、と滑り落ちていく。騒がしかったはずの店内の音が一瞬にして消え、すべての光景がスローモーションのように感じた。
目の前にいる恋人がビールジョッキを置く音をどこか遠くで聞いているような気分だった。
「そんなの、いつまで経っても難しいよ。学校に入ってからもずっと競争で夢を叶える人なんてごく一部なんだよ。こんな事言いたくないけど、今後のことも考えて就職した方が良いと思う。職場の同僚が最近始めた店があるんだ。そこ、紹介しようか?バーの店だけど割に給料良いと思う」
ほんのりと赤く染まった頬で一息にそう言うと、忘れたように、「少しきつい言い方かもしれないけど実紀のことを想ってのことなんだ」と付け加えた。
私のことを想って。私は何も言わなかった。正確には、言い返せなかった。口をつぐんだ私に彼はビールと梅きゅうともつ煮を追加注文し差し出した。私は黙ってそれらを食べ、ぬるくなったビールで流し込んだ。
本屋に向かう彼と別れ、夜の街を一人歩く。闇に包まれた空に浮かんでいるはずの星は人工的な光にかき消され、淡く濁っていた。
そういえば、目の前の光に囚われて歩くことに精一杯で東京の夜の空をほとんど見上げたことはなかったな。
目の前にネオンが広がり、黒く染まった街を明るく照らし出していた。まるで無理に新しい街を取ってつけたかのような、夜の深い色にそぐわない異様さだった。
装飾のようにつけられた光の数々を目にしていると、ふいに瞳が微熱を帯びたように熱くなった。胸に溜まっていたものが涙となり一気に溢れ出す。
泣いている。
そう分かった瞬間に嗚咽が止まらなくなった。すれ違う人の視線をいくつも感じた。ひどく惨めだった。
林立するビルの間に、所々が傷んだ宗教団体の建物が建っていた。涙で歪みいびつな輪郭に見えたが、今ならそこに駆け込み、神様のお告げを聞こうとする人の気持ちが分かるような気がした。
”神様、どうか教えて。今の生活は、正しいですか?”
*
小さな違和感はやがて渦を巻くように心を内側から侵食し、私の生活を乱していった。しこりを胸に秘めたまま生活することに慣れてしまえば早かったが、ときどきそれは顔を出して私を苦しめた。
貯めていた貯金をすべて下ろし、新しい部屋に引っ越した。7畳ロフト付きのワンルームで白を基調とした洗練された空間だった。広い部屋に越したかったわけではないけれど、それ以上にお金の使い道が浮かばなかった。とにかく、上京したての思い出の詰まったあの部屋にはもういられなかった。
そして、私は歌うことをやめた。
思えば、こんなに多くの人とすれ違って「今」を共有しているのに、誰一人として顔を思い出すことができない。
それは単なる記憶力の問題か、はたまた私自身に人に関する興味を欠いた欠落があるのか。それらは検証のしようがなかったが、どちらにせよ、私は確かに人に対する、そして私自身に対する興味を失っていた。
みんなと同じように見られればそれで満足だった。
いつのまにか表情は消え、今までどんな顔をして生きていたのかもわからなくなった。ロボットのように無表情で街を歩いていると自分が何者であるのか、いよいよわからなくなってくる。
夜の街は華やかな光を放ち誘惑をあちらこちらで向けるが、私は無理に取り繕ったかのようなカラフルで人工的なネオンがとても苦手だった。取り繕って生きている自分を思い出して我に返って辛くなるからだ。
顔のなくなった私はついに、私でいることをやめた。
*
傾いたばかりのはずの陽が溶けるように薄れ、代わりに薄紫色の淡い色が顔を出し夜の訪れを告げていた。もう夏だ、と思った。
ここは夢が叶う場所ではない。そう悟ってから何年もの月日が経ったのだろう。
子どもたちの笑顔を思い浮かべて買った今日の夕飯の材料は、どれも命がたっぷりと詰まっていて重たい。あの日と同じような淡い光に包まれた街は、夜の訪れを静かに受け入れていた。
横断歩道の上で立ち止まって流れていく景色を見る。夕暮れ時のこの道の先にあるものを見ることに必死で、「今」を生ききれなかった少女がそこには確かに存在していた。
すれ違う人々は相変わらず無表情だけど、それでもやっぱり私はこの街が好きだ。
一人ひとりそれぞれ抱えた物語があり、絶えることなく何かが始まって何かが終わっていく。いつ終わってしまうかも分からない物語を最後まで紡ぎながら、ときには「今」目の前にあるものを見失いながら、全力で生きている。
そう考えると、かけがえのない同じ時を共有している人々のことが、ベールのように夕闇に覆われたこの街のことが、無性に愛しくなった。
あの時描いた「東京」の歌を子どもたちに歌ってあげよう。
小さく口ずさんだ冒頭の歌詞が、淡い輪郭を帯びて宙を舞う。
私は人の群れに紛れて、家路に向かって足を前に進めた。
*
短編小説。と、東京にいたときに少し重ねた想いたち。
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