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コンプレックスは、人が怖いこと。


いまの私をつくる過去の経験


「人たらしだよね」

いつだったか、初対面の人に言われた言葉に深く傷ついたことがある。

傷ついたということは、自分に何らかの自覚があってそこを見つけられた時にはっとしたからでもある。全く自覚していないことに対してなにか言われたら、その人からはそう見られているんだで、終わる話である。

”人たらし”とは簡単に言うと、いつも笑顔でポジティブで他人のために労力を惜しまない、フットワークが軽く甘え上手など。ということは本来であれば良いことのはずだった。でも、私はその言葉に傷ついてしまった。

誰にでもいい顔をする“八方美人”

私はずっと、誰かに嫌われることが怖かった。小学生の頃、NOと言えない性格だった私に対して面白がっていじる子がいた。

「あの子にならこれ言ってもいいよね」
「あの子ならなんでもやってくれるよ」

そういった集団心理を生み出させてしまったのも、NOと言えない私のせいだった。気づいたらいじりがエスカレートしていて、”素直で従順でなんでもはいはいと言うことを聞く子”という周囲にとっての私の理想像が日々創り上げられていった。私は、それを黙って横で見ているしかなかった。

不謹慎かもしれないが、誰の目で見ても分かる完全ないじめだったのなら先生や親にも言えたのかもしれない。でも、私の中でそれは”仲が良い子との遊びの延長線上”だと思っていたし、そう信じていた。どんなに嫌でもこれは我慢しなくてはいけない。ひとりでずっと、そう思っていた。

やめてくださいと歯向かった瞬間、汚物を見るような目で見られた顔を今でもはっきりと覚えている。

”人に歯向かってはいけないんだ”

そう学んでからは、人に抗うという行為を忘れてしまった。本当の自分はいつも私のなかだけにいた。

同時に、昨日まで親しかった友人にいきなり空気のように無視された時、私は人が怖いと、そう思ってしまった。

こうして、”誰に対しても良い顔をする”という行為が当たり前のように習慣として身についた。もはや素でできるようになってしまった。いや、これが私の素になった。

誰に対しても笑顔でいなければいけない。抗ってはいけない。そうすれば、誰からも嫌われることはなんてない。

そうして私は自分の中にある”辛さ”から逃げ出した。

私のしている”人たらし”は、人が怖いから。人に嫌われることが、裏切られて傷つくことが、たまらなく怖い。昔のトラウマが今の自分の”人たらし”を生み出していて、人が怖いことを理由にそうなってしまった自分がとても嫌いだった。

そして、”人たらし”だと言われた時に”そうじゃない”と、”これは本当の自分じゃない”と、そう思った。習慣として身に付いて素でしているけれど、それは本当の私なのか、本気で悩んだこともあった。

もし、いま私がこの”人たらし”をやめてしまったのならば、誰も私のことを認めてくれないんじゃないか。価値がなくなってしまうんじゃないか。

いつも本当の自分でありたい。でも、取り繕った自分が結果として今の自分の素になっている。本当の自分はどこにあるんだろう?そんな想いがぐるぐると葛藤しながら渦巻いていた。

私は長らく演じていた。演じすぎて、もう本当の自分がわからなくなってしまった。

それがすごく、すごくコンプレックスだった。

心から笑えている人を見ては泣きたいような気持ちになったこともある。取り繕っている私をみんなが好いていてくれるなら、本当の私をなかったかのようにすべて置き去りにしても良かった。でも、できなかった。

そんな葛藤の渦中にいた私が気がついた2つのことがある。

それは、”断る勇気””自分を認めてあげること”だった。

労力の要る断る勇気

人間、誰でもみんなに好かれていたいと思う生き物。私の場合は、昔のトラウマもあって人が本質的に怖いと思うようになり、結果として誰にでもいい顔をする本心を出せない八方美人につながってしまった。人にどう見られているか気にしすぎてしまう。それによって、自分の気持ちはどうしても後回しになってしまう。

私は人から頼まれたことはとりあえず良い返事をして引き受けてしまうことが多かった。

仮に断ったとき、「そんな人だと思わなかった」と落胆されてしまうのではないか、嫌な気持ちにさせてしまうのではないか。

そう考えると無理してでも引き受けたほうが自分の気持ちが楽だった。断るほうが精神的な意味での労力がいるから、私のなかでは人の頼みを断らないことが変えようのない決まりとしてあった。でも、それは単なる自己防衛で、じつは相手のためになっていないと初めて気づいた。

難しいひとつの頼み事を受けた時、無理してでも期待をすこし上回って返せたとする。「ありがとう」と受け取った相手は期待以上のものを受け取って嬉しい。そして、それを無理して返したものだとは露ほども知らない相手は、次にもっと期待値を引き上げた頼み事をするようになる。

”もっと、もっと”と高みを目指して何かを期待されることは、自分の成長にとっても気持ちの面にしても、とてもありがたいし嬉しいこと。でも、そんな頼みごとがいくつもあった時、私という存在自体が壊れてしまう。“頼み事を返すことができる私”という、いつの間にか相手ありきの自分になってしまい、本当の自分を見失いかねない。自分の中でこれはやるべきこと、やらなくてもいいことと、大切にしたいことの優先順位をしっかりつけることが大切だと思った。

また、無理に引き受けて相手の期待値まで届かなかった時、相手は少し残念な気持ちになるだろう。自分自身にも、身体的労力に加え、相手の期待に届けられなかったという罪悪感と自己嫌悪などの精神的なダメージがセットで伸し掛かる。そうなると、どちらも幸せという状態に持っていくことは難しくなり、労力をかけたものは当事者間では無駄となってしまう。

だからまず、お願いされたことに対して”自分の脳力やスキルで本当にできそうか?”を考える。何でもかんでも引き受けずにひとつひとつ丁寧に考え、時には勇気を出して断ることが相手や自分のためになると知った。


自分を認めてあげる

自分を認めてあげることに関しては、HSPという生まれ持った心に備わる性質のことを知って、気が楽になったことにある。

HSPとは、ハイリー・センシティブ・パーソンという人一倍繊細な人に備わる気質である。

特徴としては、
・深く情報を処理し、物事を深く考える
・過度な刺激を受けやすい
・共感しやすく、相手からの影響を受けやすい
・常に周りに気を遣い、物事に敏感で疲れやすい
・自己肯定感が低い

などが挙げられる。

友人に日々の悩みを相談した時、「それってもしかしてHSPじゃない?」
と言われて調べたことで自分自信と向き合うきっかけになった。

もしかしたら…と思って調べてみると、ほとんどすべての項目にあてはまった。確かに、多くのことを同時にこなすことが苦手なため一度に多くのことをお願いされると混乱したり(要領が悪いとよく言われる)、些細なことに深く考えすぎたり感動したり驚いたり、すぐに相手の気持ちと自分の気持ちを置き換えるため過度に共感しやすく疲れやすい。また、他人の前で緊張しやすく本当の自分でいることができない(どう見られているのか過度に気になってしまい心配になってしまう)。

そんな自分がいることを改めて、はじめて知った。

ばーっと書いたが、結局、これまで自分は自分のことを全然知らなかったんだ、と。

自分が仮にHSPではないとしても、見失いがちな本当の自分の特質や性格を理解しておくことで、できなくても過度な自己嫌悪に陥ることは少ないと思う。

”なんでみんなはできて私はできないんだろう”と自己否定することは自分のことを本当の意味で理解できていないからなのだと知ってからは、自信をつけて可能性を広げるために、”いまの自分自信を理解し、認める”というように認識を変えることが重要なのだと感じた。

まずは自分を知り、認めることがすべてのはじまりの第一歩。これは簡単なようでとても難しいけど。

思い返せば、なんであの時できなかったのだろう・・・といった自己反省会は日々頭で繰り替えすものの、今日はここを頑張った、私えらい!と自分を褒めることは長らくしてこなかった。その間に自己肯定感が下がり、良いものを生み出せなかった自分がいた。

反省会は大切だが、”本当の自分を知る”ことで具体的にどうすればいいのかの手立ても見えてくる。

”私は他人の前では緊張して本音で話せない性格なんだ。じゃあ、次ははじめに他人のことを知る聞き役に入って、そこから話題を少しずつ広げて話すことに慣れていこう”

例えばこんなふうに。

いきなり無理に自分を変えようとせず、いまの自分自身を認めた上で自身と対話してみることの重要性を感じた。


最後に。友人に言われた一言を私なりの解釈も交えてここに残し、いま辛いと感じている人に伝えたい。

「みんなそれぞれの今を必死で生きてる。それだけで十分。頑張らなくて、頑張ろうと思わなくてもいいんだよ。休息も大切な仕事だから」



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