少女
暑いのか寒いのか、よくわからないような季節。じっとりと額に汗が滲むかと思えば、肌に触れる風がひんやりと冷たかったり。ころころと表情を変える気温に翻弄される日々。花の匂いが強くなって、目に映る風景も一層濃くなるこの季節。
思い出すのは、のどかな田圃に囲まれた祖母の家。雲ひとつ無いまっさらな空の下、祖母が愛でていた花々や草木に水色の長いホースで冷たい水をかけた。生温い風が緑の香りを運んできて、頬がむず痒かった。
学校帰り、やわらかな土を集めて泥団子をつくったこと。
兄と二人、用水路で西瓜を冷やしたこと。
祖母におはぎのつくり方を教わったこと。
温かな昼下がり、家族みんなでピクニックをしたこと。
風に舞う桜の花びらが髪にひっつき、春の訪れを感じたこと。
春になると、幼少期の記憶が波のようにゆっくりと押し寄せる。
一昨年の春にしていたことや考えていたことはとうの昔のことのようで、何を食べて笑っていたか、どんな景色を見ていたかなど、細部の記憶はどうしても曖昧になってしまう。年ごとに積もる記憶が、年ごとにひとつずつ消えていってしまうようで少し寂しい。でも、幼い頃の記憶のほうがいまの記憶よりずっと濃いような気がするのはどうしてだろう。23歳になってもなお、幼少期の記憶に揺らいでしまうのはどうしてだろう。
たぶん、初心を持っていたからだ。はじめて見る色、はじめて食べる味、はじめて歩く道、はじめて触るもの。今よりずっと感性が研ぎ澄まされて、目に映るものすべてが新鮮で、毎日がとても楽しかった。どんなことでも、自分なりに楽しんでいた。
大人になるにつれて、子どもの頃は考えなくても良かったことや制約など色々なものが立ちはだかって、純粋にものごとに向き合えなくなる。子どもの頃に抱いていた「どうして?」の疑問はいつしか常識ということばに取って代わられ、与えられたものごとを常識の範囲内で判断するというつまらない大人になってしまう。子どもの頃は、「どうして1+1は2なのか」「どうして花びらは舞うのか」「どうして人は結婚するのか」とあんなにも思考を巡らせていたのに。
大人が子どもに教わることが多いのは、きっとそういうことなんだろうと今になって少しだけ分かるような気がする。私も、気づかぬうちにつまらない大人になってしまっているのかもしれない。
春になると、幼い頃の純粋無垢な微笑みが、風に乗って私のもとへと会いに来てくれるような気がする。やわらかい陽の光を感じながら、過去の自分と向き合う。
いつまでも、幼い少女のように。