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サリバン先生に教えてもらったこと

子どもというのは、自分の親が、自分と同じ年齢の頃に何に興味を持って、どんなことをして過ごしたのかを知りたがるもののようだ。

年末年始に実家に戻った時、小学生になって一段と成長した感のある小1の娘が、私の母に、私がどんな子どもだったのかを熱心に質問していた。

娘が特に気に入ったエピソードは、子どもの頃の私が、母から怒られそうな気配を感じると、すぐどこかに姿を消していたという話だ。母には余計なことは話さないでもらいたいが、たぶんもう手遅れだ。なぜなら、娘も母も、今後も引き続きこの話題で盛り上がる気満々だからだ。

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それはさておき、年明け以降、自分自身でも、自分がどんな子どもだったかを思い出そうとしてみた。

完全に忘れかけていた過去の記憶を呼び起こすのは、結構難しい。

それは例えていうならば、パウンドケーキ型にこびりついたケーキのコゲをキレイに取り除く作業と似ている。ケーキ型を傷つけるのでタワシでゴシゴシやるわけにはいかない。かといって手間はかけられない。水に浸した状態でシンクに置いてある型に、何かの茹で汁が出た時にジャーっとやる。熱湯の方が汚れは落ちやすいからだ。そうこうした後、スポンジでそっと汚れを落としてみる。まだ完全にはきれいに洗いきれない。でも、このレベルになると、熱湯でふやかして汚れを落とすのは難しい。少し時間のある時にゆっくりと丁寧にスポンジで洗う。狭い角は素手で洗い落としてみる。

、、、と、ここまで書いて、一体なんのことを書こうとしていたのか、うっかり忘れかけていたが、要するに私は、過去の記憶は思い出そうと思っても、そう簡単には思い出せないということを言いたかったのだ。

今朝の出来事が、過去の記憶を掘り起こす作業の邪魔になって、思わず脱線してしまいましたが。

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それはさておき、そういえば、自分は、子どもの頃、ろくに読書をしない子だったにも関わらず、伝記だけは好きだったことを思い出した。

実家の本棚には偉人賢人の伝記シリーズがずらっと置いてあった。兄が本好きだったのもあって、兄の横に並んで試しに読んでみたらハマった。

アリの行列を観察するのが好きだったため、ファーブルの一生には心底憧れた。年がら年中、虫を追いかけることを仕事にしている大人がいるなんて、虫好きにとってはロマンでしかない。しかも、ファーブルが研究に熱中したのは「フン転がし」という虫だというではないか。動物の糞を運ぶ虫と、四六時中、フン転がしを観察する大人。底知れない可能性を感じた。

ノーベルの伝記は子どもだった自分には少し怖く、ニトログリセリンという言葉を覚えた。怖いという意味では、ナイチンゲールの世界もだ。戦争というものを知った原体験かもしれない。

思いがけず、芋づる式に呼び起こされる過去の記憶。また伝記を読みたくなり、子どもに買い与える名目でシリーズモノを買おうとしたら、数万円すると知った。そこで、とりあえず10数名の偉人の一生が、挿絵とともに描かれている小学生向けの本を1冊買ってみた。

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子ども達は、案の定、新しくやってきた伝記本に食いついた。特に上の子は他人に対する関心が高い子だ。歴史に名を残した人たちの、短くビビッドな物語に食いつかないはずがない。

もう1人、あともう1人、、と2人の子どもの求めに応じて読み進むと、ヘレンケラーに行き着いた。

幼い頃の病気が原因で目も耳も不自由になったが、類まれなる努力と才能で大学まで卒業し、障がい者支援に一生を捧げた女性の伝記だ。

ヘレンの躍進にはサリバン先生という家庭教師が欠かせない。

ヘレンの掌に文字を書いて覚えさせる。すると、覚えのいいヘレンはあっという間に文字が書けるようになった。でも、ヘレンはサリバン先生を真似て線を書いているだけで、自分が書いているものが文字というもので、それが自分の気持ちを表現したり、世の中にある様々な物体を表すもの、つまり言葉だということがどうしても伝えられない。

そこでサリバン先生は、掌にウォーターと書いては、ヘレンに水道の水を触らせることを繰り返した。

すると、ある時にヘレンは、自分の手に触れる冷たくて流れていく物体と、サリバン先生が掌に書いてくれるウォーターという文字とが繋がりをもつものなのではないか、という点に気がついた。

ヘレンの脳内にある小宇宙にふわふわ彷徨っていた点と点とが、確かでまっすぐな線として繋がった瞬間だ。

そこからのヘレンは、ものすごいスピードで様々な知識を身につけていったそうだ。

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このヘレンケラーのエピソードは、子育て、いや、人間の成長の本質をついているような気がする。

ヘレンの場合は、文字と言葉の関係を教えようにも制約条件が多すぎて教えられなかったという特殊な問題ではある。

でも、人がグンと伸びるのは、他人から何かを単方向に教えられた時ではなく、自分の頭で考え、何かを発見できた時だ。

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サリバン先生ありがとう。

そう。大事なのは教えることではなく、子ども自身の気づきを促すこと。学びの主体はあくまでも子ども達。大人が教えるのは学びを促すためだ。

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