![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/154552632/rectangle_large_type_2_708ed75fcfd68b5b87f29e806fb2e6d9.jpeg?width=1200)
読書感想文:『屍者の帝国』
伊藤計劃×円城塔『屍者の帝国』(河出文庫)
屍者復活の技術が全欧に普及した十九世紀末、医学生ワトソンは大英帝国の諜報員となり、アフガニスタンに潜入。その奥地で彼を待ち受けていた屍者の国の王カラマーゾフより渾身の依頼を受け、「ヴィクターの手記」と最初の屍者ザ・ワンを追い求めて世界を駆ける──。伊藤計劃の未完の絶筆を円城塔が完成させた奇蹟の超大作。
(裏表紙より引用)
※物語の内容に触れる部分があります。
これは死者の物語だ。
第一にその内容において。そして第二に、その創造主において。
作家・伊藤計劃は、2009年、34歳の若さでこの世を去った。『虐殺器官』『ハーモニー』に続く3作目のオリジナル長編として構想されていた未完のプロットと冒頭30枚の原稿を元に、盟友である円城塔が執筆したのがこの『屍者の帝国』である。
円城によると、この小説は当初から「荒唐無稽な軽い読み物」として企画されていたという。実際、数多のパスティーシュ要素(僕にわかるだけでもホームズ、カラマーゾフの兄弟、吸血鬼ドラキュラ、フランケンシュタイン、海底二万里が借用されている)を含み、19世紀の世界で動く死体=「屍者」を相手にドンパチ合戦を繰り広げる物語の雰囲気は、前述の2作品とは大きく異なっている。
そんな根っからの娯楽作品を前にして、テキストから離れた要素である作者の死を取り沙汰してあれこれ書き連ねることは、もしかすると両作者の望まないことかもしれない。しかしそれでも、僕はひとりの伊藤計劃ファンとして、彼の死とこの物語の内容を結び付けずにはいられない。だからこの「感想文」と称するよくわからない記事においてもその態度を貫かせてもらおうと思う。
■
この小説で重要なテーマとなっているのは、ひとつは「意識」、もうひとつは「物語」である。
人々は自らの内に「意識」が存在すると認識し、他者の内にもまた存在すると推定している。一方で屍者に意識はなく、ただ指令に従うだけのモノに過ぎないというのが、本書で描かれる世界の常識である。しかし、これらの認識の正しさを証明することは本質的に不可能だ。自分以外の生者が「哲学的ゾンビ」である/でないことを示す手段はないし、自分がどうなのかを自分に対して納得させることすら不可能である。いわんや屍者をや、という話だ。
小説の終盤では、ワトソンたちへの答え合わせとして「意識」の正体について大胆な説が提示されるが、その真偽も結局は明らかにならない。客観的な真実として残される情報は何もないのである。では、我々人間について言える確かな事実は何なのか。それは、我々一人ひとりが物理的実体としての記録であり、世界に記述されたテキストであり、一揃いのデータセットであるということ、言い換えれば、解釈によってのみ意味が付与されうる存在であるということだ。すなわちそれは「物語」である。
我々人間は、自走する物語、物質化した情報として存在する。解釈を行う者がいるかどうかも不明なまま、そう在ってきて、そう在り続ける。
これが、多くの問いを内包する本書がたどり着いた一つの結論だ。つまりは「人生は物語だ」と言えるわけで、こうしてみると陳腐ですらあるが、いまだ意識の正体を解明できない我々にはこれ以上の結論は手に負えないだろう。
■
さて、先程の結論を踏まえて改めて考えてみると、この小説そのものについても少し違った受け取り方をしてしまうようになる。この世界にかつて確かに生きていた伊藤計劃という人物。彼が何を考え何を思っていたのか(あるいは何も考えず何も思っていなかったのか)本当の意味で知る由はないが、物語としての彼の人生は僕にとって解釈可能なものとしてあり続ける。『屍者の帝国』はその中の一要素だ。そしてまた、『屍者の帝国』は円城塔という物語の一部でもある。彼が伊藤のことをどのように認識していたのか、何を引き継いだのかが、この本を通じて僕によって解釈されうる。そういった意味で、彼らはある種の不死性を獲得している。これは、「人は死んでも記憶の中で永遠に生き続ける」というような美しい認識の仕方ではない。むしろ、「人はもともと記憶の中でしか生きてはいない」というのが正確ではないかと思う。
仮に人間がそういう存在なのだとして、それが希望なのか絶望なのか、僕は知らない。希望も絶望も解釈に過ぎない以上、この問いはそもそも前提と矛盾している。ただ僕は『屍者の帝国』の背後にある彼らの物語に触れられたことを嬉しいと感じている。記憶の中でしか生きられない彼らを僕の中で生かしたいと願っている。僕の意識の存在は誰にも理解できないから、彼らという物語が僕によって解釈されうることさえも証明はできないけれど、少なくとも僕という物語の一部としてここにそう書き記すことは可能である。
ゆえにこれは、二人の生者の物語だ。