「少年の日の思い出」について(後編)
前回で概要とストーリー上の大切な場面の切り取りをしました。
後編では、僕とエーミール、それぞれの問題点・良かった点について考え、最後にこの題材について語り合う意味について考察してみようと思います。
エーミール Teの象徴
まず、私はエーミールはTe優位な人間というよりかは、「Teの象徴的な人物」ではないかと感じました。
彼がT型限界突破人間で、多くの僕派の民の心を抉り取っていったことはもちろんなのですが、加えて彼が「先生の家の子」「自室のあるお金持ち」で「知識も技術もある」ということ、
Te要素「社会的に良しとされる」人間であることもかなり特徴的なのです。
エーミール(Te)の問題点
彼の問題点は、作中僕が思っていたように「正しい」ことです。
「正しい」だけで「適切」ではないから問題なのだと思います。
私がTe持ちなのでどちらかというとエーミールに共感しがちなのですが、彼は周知の事実として「言い方がキツイ」「故に反感を買いやすい」です。
これはTJ型によく見られる性質なのですが、彼と僕のようなコンプレックスを介したコミュニケーションでその性質が全開になってしまうと、現実には「大事なヤママユガを台無しにされる」以上の不利益を被ることになることが多いでしょう。
仮にもし彼が思いやりがある人間だとしたら、僕はコンプレックスを抱くことはあってもヤママユガを断りなく見に行くような暴挙に出たりはしなかったのではない、となんとなく感じませんか?
最近のアニメや漫画にそういった「性格も見た目も能力も完璧な人」と「そんな友達にコンプレックスと憧れを併せ持つ凡人」の組み合わせは非常に多いように思います。
エーミール(Te)の良い点
しかしながら、あそこで個人的な報復のために社会的、経済的な地位を(少なくとも作中で読み取れる範囲では)濫用していないのはエーミール(Te)の良さだと思います(そんなところが「僕」は嫌いなのでしょうが)。
正直、あの場面でエーミールは様々な報復ができます。
直接手を出すという手段はもちろん、やろうと思えば親に訴えて法の元に「僕」を晒すこともおそらく可能です。時代が時代ですし、おそらく「お金持ちを侵害する貧民」というような解釈をされやすいでしょうし、そうなったら「僕」には守ってくれるだけの力を持った後見人もいません。
そうした権威、自分が何を持っていて、どうすることができるのかをおそらく「大きな少年」くらいの年齢ならエーミールは理解していると思われます。そこで皮肉を言って済ませるという判断ができるのは、エーミールが感情を排除しているTeだからこそでしょう。
そういった点では、「僕」はTeに嫉妬しコンプレックスを抱いて罪を犯しますが、同時にTeによって救われた面があるのかもしれません。
僕 Fi優位型
「僕」の問題点
彼の問題点はわかりやすく「エーミールの家に侵入した家宅侵入罪」「エーミールの大事なヤママユガを破壊した器物損害」でももちろんいいのですが、何より「相手を思う気持ち(Fe)の欠如」です。
「え?思いやりに欠けているのはエーミールでしょ?」
と思われるかもしれませんが、実は私から見れば作中最も思いやりが欠如しているのは「僕」です。この点について詳しく書いていきます。
確かにエーミールの「そうか、そうか」以降の発言はインパクトのあるものなのでついエーミールの非情さに目がいくのですが、僕がとった行動・思想を見ると、「僕」も決して他人に対して思いやりがある人間には見えないのです。ここで大事な箇所は以下です。
「自分の獲物に対する喜びは、かなり傷つけられた。」
「盗みをしたという気持ちより、自分がつぶしてしまった、美しい、珍しいちょうを見ているほうが、ぼくの心を苦しめた。」
上記は前回も引用させていただいた「僕」についての部分なのですが、
この心境及び作中全体の傾向として、
「僕」は自分の気持ちを大切にするあまり、他人の痛みに無関心なのです。
「自分が褒めて欲しいから」エーミールに蝶を見せに行き
「自分が蝶を見たいから」エーミールの家に無断で入り
「自分が欲しいから」エーミールの蝶を盗んで
「自分が罪悪感に耐えきれなくなったから」謝りに行く
と、そこに「他者がそれをそう感じるか」という発想そのものが抜け落ちる傾向にあります。ここが「僕」派の人にもぜひ考えてみて欲しい点です。
エーミールが僕のことをどう思っていたか、その本心はわかりませんが、少なくとも「思いやりに欠けている」のが果たしてエーミールだけなのかは議論の余地があるように思います。
「僕」の良いところ
ここまでかなり「僕」を否定的に書いてきましたが、彼にはとても良い面があります。彼が「謝れる人間」であることです。
彼はおそらくFi(自分の気持ちや信念)優位型なのですが、そんな彼のFiには「いけないことをしたら、謝りたい」という感性があるらしいのです。
もちろん私(Te)から見て「Fiが謝りたいなんてなかなか殊勝じゃないか」というのはなかなかにアンバランスな気がしてしまいますが、「彼は最後きちんと謝った上で許されなかった。謝らなければ、かの発言はなかった。」ということを考慮すれば、いかにあの謝罪が意味のあるものだったかわかると思います。
この題材について語り合う意味
このような問題は正直大人になった今でも形を変えて起こっているように思います。
エーミール派に立って、「まったくなんて根性の卑しいやつだ。」「被害者の自分より辛そうに語るなんて頭がおかしいんじゃないのか。」とか、
あるいは「僕」派に立って「ああいう思いやりのない人間は酷いことをされても当然だ。」「謝ったのに許しもしないで、あまつさえバカにしてくるなんて、なんて性格の悪いやつだ。」とか、
本当に、そこらじゅうで、内心このように思っているんだろうな、と感じる行動や現象、発言が多いです。
しかし、私からすれば、そのどちらも「正解」で、どちらも「不正解」です。なぜならエーミールにも「僕」にも変えているところがあって、そのどちらも長い時間をかけてゆっくりと育まれていくからです。
「自分と違う感性、ありえないと感じる考え方を持った人がいる」
「自分の感性も、あの人の感性も、どちらも間違っていない」
「そうした人たちとも話し合う必要がある」
そういったこれからに繋がる視点、人と人との関わり合いの中で大切になってくる感覚、これを意識させてくれる頃がこの作品について話し合う真の価値ではないかと思います。
最後に ーざっくりとした感想ー
さて、ここからは私の個人的な感想です。
まずは何より書けて良かったなと思います。
Twitterや知恵袋で、この作品についてのどっちかを徹底的に擁護/断罪されている発言を見て疑問に思っていたので、前後半に分ける長丁場になってしまいましたが、書いた甲斐がありました。楽しかった。
作品の感想なのですが、まず冒頭の大人になった「僕」がもう蝶の採集をやめてしまっていたところが悲しかったですね〜偶然エーミールとどこかで会って、あの頃のことを話し合って、ちょっと見直して蝶を見え合うとか!そういう未来は残念ながらなかったようです。青春の苦い思い出はそう簡単には解消されないぞってことでしょうか。
あの後エーミール君はその後どうなったんですかね。やっぱりエリートな人生を送っていたりするのでしょうか。例えばヤママユガなのていくらでも手に入ってしまうような学者とか。実は冒頭で話している友人がエーミールじゃないかと思ってみたりもしたのですが、その線はなかなか厳しいように感じてその解釈は断念しました。
あとは、作中の言葉選び、特に「僕」の蝶を捕獲するシーンの描写がとても臨場感があって素敵でしたね。「そうかそうか」が印象的すぎて忘れていましたが、読み返すとなかなか良いシーンだったと感じました。
古い作品や過去に読んだことがある作品でも、自分が変われば味方が変わって見えるというのは面白いですね。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
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