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「言語力」と「言語化力」を駆使し、「実感」と「表現」を行き来する。~文章力・表現力を上げるヒント~

先日、「読み手にイメージが浮かぶ文章、言葉を紡ぎたい」と書きました。

そのための、
その力を鍛えるための、ヒントを見つけました。
その時も読んだ本がヒントになっていたのですが、これもまた本から。


森田真生『数学の贈り物』より

実感を表現に写し取ったり、逆に表現にしたがって実感を更新したり。その往復こそが、創造行為の醍醐味だろう。
ところで、表現が実感を牽引するのはいいが、実感が表現を手元にひき寄せ続けることも重要である。
でないと、表現はすぐに空疎になる。


取材をしている中で湧き上がる、瞬間的な、瑞々しい感情。それを表現に写し取ろうと、しっくりくる言葉を求めて紙の(あるいは液晶画面の)上でもがく。ぴたりとはまる言葉にたどり着けた時の爽快感たるや。
同時に輪郭の見えていなかった感情に言葉がはまったことで改めて自分の感じたものを理解することもあり、表現が実感を更新してくるとはまさに。

表現を生み出すことを課せられた日々の中で少なからず起こることを言い現わしてくれていて、激しく首肯しました。
そしておそらく、〝はまる〟言葉を見つけられた時にこそ、私が目指す「読み手にイメージが瑞々しく浮かぶ文章」が成立すると言えるのだと、自分の中のロジックも整理されました。


実感と表現の往復とは、言い換えれば主観と客観、感性と理性の往復ということにもなるのでしょうか。それは何かを言葉で表現する時には欠かせません。それを欠いてしまうと、たちまち実感を伴わない、すなわちイメージの湧かない文章になってしまう。それが「空疎」と感じられてしまう理由でしょう。

ここまで書いて、
少し前にあるセミナーで聞いて考え続けていた「言語力」と「言語化力」という似て非なる言葉の違いは、これかと思い至りもしました。

「言語力」とは、乱暴に言ってしまえばたくさんの言葉を知っている、繰り出せるということ。言語力があれば、実感を牽引する=感情をも引っ張り出す言葉、それだけのインパクトや華やかさのある言葉も知っていて使うことができるでしょう。それ自体は素晴らしいことです。
しかしその表現を手繰り寄せていった先に実感が結ばれていなければ、ただの言葉でしかなく、それはどんなにたくさん並べ立てても空疎でしょう。

一方で「言語化力」は「~化」とあるように、何かを言葉に変化させる力のこと。言葉の前に何か=感情や思い、考えていることがあるので、空疎にはなりません。実感を出発点に表現を引き寄せることができる力が言語化力と言えるのだと思います。実感がこもった言葉を生むのも、この言語化力なのでしょう。

というわけで、言語力と共に言語化力を磨き、実感と表現を行き来しながら書くということが、イメージが浮かぶ文章のヒントになりそうです。


おまけ。
この部分なんかは、絵日記を書いてるときにしばしば起きることだと感じる。

現実にしたがって何かを表現することもあれば、生まれてしまった表現に、現実の方が鍛えられていくこともある。

はじめは起こったことを書いてるのだけれど、気づけば自分でも予期せぬものを書いていて、ハッとすることが多々あるのです。が、それもまた別の機会に。

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