リハビリ日記
すこし長い文章が書けなくなって半年近く経つ。
書いてみるものの断念しては下書きに押し込み、そうやってできた10を超える下書きたちを眺めて、これはもうテーマ立てして文章を書くことは無理だ!と判断し、ただの日記を書くことにした。
ただの日記、とまるで簡単なことのように書いたけど、そんなこともなくて、度々手が止まってしまう。言葉が詰まる。思考するための脳の余白みたいなところがすごく狭まっているのを感じる。わたしの気持ちはどこにいったのだろう。あったはずの、あるはずのものが見当たらなくて心臓の裏あたりがざわざわとする。
よくお邪魔するコーヒー屋さんがいくつかあって、そのうちひとつ、一番長いお付き合いで毎週のように顔を出していたお店がある。けど、そのお店にもこの半年間行けなかった。最初は単に時間的・体力的な余裕がなかったせいだけど、その後はなぜか行けなくなってしまった。これまでの自分を知っている人に、どうしても会いたいと思えなかった。
先日、半年ぶりに伺うことができて、お店の方からずっと心配していたんだよ、などいくつもの労りの言葉と安堵の表情で迎えていただき、試作品だから食べてねといただいたアイスを帰り道に泣きながら食べた。人のあたたかさに反して自分がとても情けなく思えた。
八方塞がりのように感じる日々はまだ続いていて、だけど、ちょっとずつ良い方を向いて歩めている気がする。コーヒー屋さんに顔を出せたこともそうだし、こうやって文章をなんとか書こうと思ったこともそう。まだ友人と会う約束をするとか、春から返事をしていない葉書を出すとか、そういうことはできないけど、ゆっくり、ゆっくりできるようになっていければいい。
写真のこともちょっとだけ。
相変わらず撮り続けてはいて、けど、去年や一昨年の写真たちとはちょっとずつ違うものになっている。ことに最近気がついた。生活の様子が違うのだから、当たり前なのだけど。
たとえば、あれだけ好きだったパン屋さんの食パンも、ほとんど食べることができていないとか。予約して食パンを買うことが、少し足を延ばす必要のあるお店に向かうことが、心身ともに元気でないと叶わぬことを知る。そして、そうやって朝食からおいしい食パンが消えて、ままならぬ朝食ばかりになって、写真におさめることはほとんどなくなった。「生きているに並列している写真」、本当にただそのとおりなのだ。
最近はこちらも徐々に回復傾向にあって、あまりにも食パンが食べたくなったりする。とりあえず超熟を買ってバターを塗り砂糖をまぶしたものを焼いて食べている。超熟はちゃんとおいしい。シュガーバタートーストは一生すきだ。
忙しさに身体ごとさらわれて、視野が狭くなりかけた時、写真がわたしをわたしとして繋ぎ留めていてくれたような気がする。きっと、たぶん。
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