運も実力のうちだって!?〜このクソがァ!〜
「運も実力のうち」
よく聞くフレーズだ。わたし(もか)はけっこうこの「運」という言葉に悩まされてきたタイプだと思う。
運も実力のうちということは、いくら努力を積み重ねて努力をしても、運がなければ意味はないってこと?
こんなことをつらつら書いていこうと思う。
「運も実力のうち」って本当?
夢を叶えるため、目標を達成するために着々と努力を積み重ねているのに、「運がなかったね」なんて、そんな陳腐で曖昧な言葉で片付けてほしくない。
当然の"そもそも論"だ。
でも、「勝負は時の運」だなんて言葉もある通り、「運」というのはなにかに挑戦するうえで欠かせない部分である。わたしはかつて取材記者をしていたが、成功者に「成功した秘訣」を聞くと、多くの人は「当然血のにじむような努力はしたが、運も良かった」と答えた。なかには「いやあね、ぼくは運が良かっただけなんだよ」なんて言う人もいたぐらいだ。(まあ、そうは言うが本当にそれだけなわけはない)
とにかく、わたしは物心ついたころからこういった物事に疑問を持つタイプだった。
例えば「終わり良ければすべて良し」という言葉を知ったとき、「いや、終わり良くても今までに経験した嫌な出来事は記憶からなくならないのでは?」と思ってみたり。「運も実力のうち」と聞けば、「どれだけ努力をしていても、運がなければ駄目ってこと?」と思ってみたり。
そういうタイプだった。
「運」はないほうだと思っていた
正直なところ、昔は自分自身「わたしってなんてついてないんだろう…」と思って生きていた。
幼稚園のときには工作の時間に友達の手助けをしたら廊下に立たされたし(たぶん先生の機嫌が悪かっただけ)、小学校のときにはみんなが嫌がる仕事はたいてい回ってきた。
中学校になったらさすがに、と思いきや、先日記事にした「泣く女」がいたおかげでいろいろと運がめぐってこなかったのも事実だ。
じゃあ高校は、と思うと、やはりここでも状況は最悪と言えた。
クラスはいかにも自我が強そうなギャルでひしめき合い、ちょっと大人しい子だとすぐにいじめのターゲットになった。そんな子はすぐに自主退学に追い込まれてしまう。わたしはわたしで、かろうじて運動部に入っていたからいじめこそ免れていたものの、これもまた先日記事にした「テニス部」の話でいっぱいいっぱいだった。
少し特殊な学校だったということもあって、卒業するまでクラス替えはない。つまり、一度目を付けられたら終わりということだ。いじめの標的にされた子たちはそんな未来を悲観して、次々とやめていった。
わたしが留学を機にやめる1年生の終わりまでに、3~4人はすでに教室から消えていたのを覚えている。
本当に学校に行くのが憂鬱だった。
だからわたしが留学を決めたのは、「日本にいる自分を悲観して」、あるいは子どもながらに「日本なんてどうせどこにいったって同じこと」と思って、それから「不登校にも中卒にもなりたくなかったから」というかなりの偏見による、ある種の“逃げ”だったと言えるだろう。
実際は日本にだっていろんな人がいるし、不登校でも中卒でもいいはずだが、子どもの狭い世界のなかではまさに死活問題だったのだ。
センシティブな子ども
「生きているのがつらいなあ」なんて思ったこともあった。
部活をやめ、学校も休みがちになった。それでもクラスに仲の良い子はいるので、週に1、2回でもなんとか顔は出せる。いじめられているわけではないから、みんな笑顔で挨拶もしてくれる。
この時点で、たぶん本当はある意味“恵まれていた”のかもしれない。でもわたしは、本当に仲の良い子以外はまるで敵かのように認識していた。
今は笑顔で接してくれていても、いついじめの標的になるかわかったもんじゃない。なにをきっかけにいじめに発展していくかなんてわからない。
そう、疑心暗鬼になっていたのだ。
学校に行かないときは、家に引きこもった。学校に行こうとすると具合が悪くなって、吐き気がする日もあった。それなのに、学校を休むことが決まるとすっかり元気になってしまう。
そんなときは必ず、「みんなだって頑張って学校に行っているのに、ひとり逃げている自分」が情けなくて、なんだかたまらない気分になる。
家に引きこもると、とにかく動かない。動かないと、疲れない。疲れないと、夜に目が冴える。次第に、昼夜逆転の生活をするようになった。
そんなある日のこと。
床に寝転んでうたた寝をしていると、物音がした。ぼんやりした頭で、薄く目を開く。人がいた。驚かなかった。
それが知人の母親であることはすぐにわかった。家の中にいる理由も聞くほどのことではない。彼女はわたしが住んでいた家の大家でもあった。だからマスターキーを持っていたのだ。
少しきつい印象を与える目元が、真っ直ぐに見下ろしてくる。飾り気のない口元がゆっくり動いた。
「もかちゃんさ、今日の夜ちょっと話あるんだけど、外に来れる?」
嫌だなあ、と思いつつ、頷いてみせる。当時は、淡々とした人や不愛想な人、物事に白黒つけなければ気が済まない人が大の苦手だったからだ。
不運は続くよどこまでも
夜、親には内緒で外に出た。なんだか言ってはいけないような気がした。家族ぐるみの付き合いだったので、その関係は壊したくなかった。
玄関を出ると、彼女(以下、親B)はすでにそこにいた。暗い中、コンクリートの壁に背中を預けてわたしを待っている。
心臓が高鳴った。無論、うれしさからではない。嫌な緊張感をはらんだドキドキだ。
親Bはわたしが近付いてきたことに気が付くと、「あのさ、最近学校に来てないよね?」と挨拶もなしに尋ねてきた。これがこのとき感じた、わたしにとっての高校時代、特に“運”がないことだった。
なぜ知人の親である彼女が、わたしが休みがちなことを知っているのか。それは不運にも、彼女がわたしの学校の事務員をしていたからだ。そんな偶然ある? 学校なんていっぱいあるのに!
なにも言えず立ち尽くしていると、そんな様子のわたしをさほど気にした様子もなく、親Bは続ける。
「なんで来ないの? このままじゃ、不登校になるよ?」
わかっている。そんなこと、自分が一番理解している。だからこんなにも自分が嫌いで、逃げ出したくて、消えたくてたまらないのに。
「単位取れなかったらどうなるかわかってるよね? 高校生なんだから、学校に来ないと卒業できないんだよ?」
わかっている。だから言わないで。そう思っても、衝撃的すぎてなかなか言葉が出てこない。
親に言われても、まあ嫌だが、親でもない、言ってみれば赤の他人(いや、確かにとてもお世話になっている人ではあったけども)にそんなことを言われなければいけないのか。それも、わたしの気持ちを聞く前に、だ。
なんだか、学校に行かない(行けない)のはわたしのわがままだと言われているような気がした。
もともと「言いたいことは言う。白なの? 黒なの? ハッキリして!」タイプの彼女(あとから知った話では、意外とナイーブな一面もあるらしい)。
結局、「なんで学校に行くことができないのか」「嫌なことがあったのか」「高校にも行けなかったら、この先どうするのか」だなんてありきたりな質問を投げ掛けられたあと、今までに一度もなかったこの妙な集会はお開きとなった。
怖くてたまらなかった。
彼女が、ではない。彼女の言葉が。
学校に行けなくなった理由も、この先どうなるのかも、自分にはわからない。わからないことだらけに囲まれている自分自身が、なんだかどうしようもなく怖くなった。
すべての出来事に感謝
わたしが留学を考えはじめたきっかけの大きな理由のひとつは、間違いなくそれだったと言ってもいい。
ともすれば、今はその出来事にすら感謝しなければならないのだろう。彼女のおかげでわたしは人間的にも成長でき、新しい自分を見つけることができたのだから。
留学を経験し、一度は日本に戻ってきたものの、すぐに海外の生活が恋しくなって海外就職を志した。英語ならできる。問題ない。なにかしらの仕事は見つかるだろう。日本でも社会人経験を積んだことだし、ビザをサポートしてくれるオフィスワークを見つけられればそれでいい。
このときのわたしはまだ、それが大きな壁だということに気付いていなかった。
「英語力?関係ありませんから!」
結果から言おう。
オフィスワークで雇ってくれるところなんてなかった。わたしが日本で経験してきた職種は、営業職や事務、それから総合職など。どれも重要なようでいて、“わたしでなければできない仕事(専門職)”というわけではない。
それなら現地の人を優先に雇うという雇用者側の考えを、理解していなかったのだ。
営業職ならわざわざビザが必要な外国人を雇うより、現地の人を雇ったほうがいいに決まっている。事務でも、総合職でもそれは同じこと。たとえばIT系の職種や会計士、医療従事者など手に職がある人ならまた話は別であるが、単なる“作業”ならネイティブのほうがどれだけ使えることか。
外国人という時点で、面接すら受けられない厳しい実情がそこにはあった(ただし、コネなどをうまく作れていれば、また違う結果になっていたかもしれない)。
ならば、と今度はアパレルや飲食店に狙いを定める。
アパレルはトライアル(お試し期間)まではいくものの、そもそもが大して興味のない分野なので無理だった。残るは飲食店(主にカフェジョブ)だが、それですら「仕事で英語を使っていたって言っても、英語で接客経験があるわけじゃないんだよね?」の一言で終わる。なにそれ怖い。
自分はここでもまた必要とされていないのか。氷河期真っ只中の日本での就活でさえ、こんな苦労はしなかった。
それなのに。
それなのに、だ。
英語力ゼロの状態で渡航してきた友達が、ある日突然カフェの仕事を取ってきたりする。「たまたま空きがあったらしくて、明日から来てくれって言われたんだ」などと言って。
これがつらかった。
わたしは今までなんのために必死に勉強してきたんだろう? 高校で嫌な思いもたくさんして、それでも這いつくばって振り落とされないように生きてきたのに。そんな卑屈で惨めな思いばかりが芽生えていく。
人に素直に「おめでとう」と言ってあげられない、そんな自分が心底嫌いだ。
わたしはその日、日本に帰国することを決意した。渡航してから3カ月ほどが経ったころだった。
「運」は本当にあるらしい
渡航してから3カ月も仕事は見つからず、財布はどんどん寂しい状態になっていく。気付けば「今週はあと300円程度しか使えないな…」なんてときもあった。そんなときは1斤80円ほどで買える食パンで空腹をしのいだ。
むなしかった。自分がとんでもなく落ちぶれてしまったような気がした。
SNSを開けば、友達が日本で楽しそうにやっている写真がアップされている。おいしそうなご飯に、心の許せる友達。これなら多少我慢してでも、日本で働いていたほうが良かったのではないか。そう思ったことも、一度や二度の話ではない。
だからわたしは日本への帰国を決めた。
その翌日のことだった。「うちのカフェで働いてほしい」という電話が、2件も入ったのは。
仕事内容は、食器洗いとウェイトレス。給料は最低賃金を大きく下回り、明らかに外国人労働者から搾取してやろうという意図が読み取れたが、そのときのわたしにとってはなにより「なんでもいいから仕事がある」という事実が重要だったらしい。社会に必要とされる実感というのは、大きな希望を与えるものだ。
話を聞いたところ、シフトの時間がちょうどかぶっていなかったこともあり、わたしは即答で働きたい旨を伝えた。翌日から、わたしは週休0日という謎すぎるシフトで働きだすことになる(そしてやっぱり体を壊した。学ばない女である)。
にしても、だ。
帰国を決意した翌日に、たまたま2件も同時に電話がかかってくる世界。「ラッキー!」と思ったのは言うまでもなく、やはりこれも結局のところ、「運」なのだ。あと少し連絡が遅ければ、わたしは飛行機のチケットを取り、その翌月あたりには帰国していただろう。
でも、わかったことがひとつだけある。
「運も実力のうち」とはいうが、これは「どんなに努力をして実力があっても、運がなければ意味を成さない」ということではなく、「努力をしなければ運もついてこない」。つまり、「実力があってこその運」、あるいは「行動しなければ運が生まれることすらないよね」ということなのではないか、と(※個人の意見)。
今だから言えるが、だってそのときのわたしは確かに頑張っていた。配った履歴書は何百を超え、きっと受からないだろうとわかっていながらも、何度も面接に行った。コネを作ろうと、食費より人脈を広げることにお金を使った(パーティーに顔を出す、ランゲージエクスチェンジで現地の人と知り合う、クラブに行く、など)。
結局は、たまたま「運良く」、3カ月間ずっとばらまき続けていた種が花開いたということにしか過ぎないのだ。
だからやっぱり「運も実力のうち」
このころからわたしは自分の状況をときに悲観することはあっても、自分自身の価値に疑問を抱くことはなくなったし、少しだけ、ほんの少しだけだけれど、人に優しくなったような気もする。
ましてや、努力をすること、生きることに疑問を感じることは一切なくなった。
人間、誰しも経験さえしてしまえば強くなるのみである。
あのときこうしていなかったら、こっちの道を選んでいたら、いろんな後悔があると思う。でもそれは、行動したからこそ得られる財産なのだ。
わたしが高校生時代に傷付いたことも、偶然近くに(あえて言うが)苦手な人がいたからで、それが大きな原因となって留学という道が開けたのは本当に偶然が重なったから。
そんな道があるということに若くして気付けたのは本当に運が良かったとしか言えないし、その後海外で仕事が見つかったのも運が良かったから。
だけどその運がわたしのもとへやって来てくれたのは、自分自身で考えて行動した結果ということにほかならない。
だからやっぱり「運も実力のうち」はあながち間違っていないのだ。そんな経験をした今だからこそ、胸を張って言える。
嫌な経験も良い経験も、すべてが今の自分につながっていると。
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