【前編】 CODEGYM 創業の舞台裏。連続起業家が、日本初の「出世払い」のエンジニア養成学校を立ち上げた理由
CODEGYM(コードジム)を創業して1年が経った。
思い出
僕の父親の会社は、僕が小学生か中学生に入ったくらいの頃に、177億円の負債を抱えて倒産した。最近になって帝国データバンクの昔の資料を調べていたら、当時はまったく知らされていなかった具体的なその内情について、あっけなく簡単にアクセスすることができた。
当然、200億近い規模となると一部の債権者の恨みも買うんだろう。父の同僚は、問題を起こした旧経営陣の後始末をする形で後任の責任者となり、手形回収をめぐったトラブルに巻き込まれて、港区の路上で脇腹を刺され救急車で搬送された。この日、いつもは明るい実家が、非常に重い空気に満ちていた。電話がまるで時限爆弾みたいに、ジリリリリと鳴る。両親が神経を尖らせ焦燥しきっていたことを、子供ながらに記憶している。幸いにも命に別状はなかった。昔あったその小さな事件は、現代のインターネットでは2件だけヒットした。幸いにも父は事件には巻き込まれていなかったが、当時の実家にはよく、脅迫電話がかかってきていた。
母は、そんな父を献身的にサポートしながら、3人の子どもを育てあげた。
今、その3人は子は、それぞれが親になった。
今では、父が悩んでいた100億、200億という単位の勘定について、市場に例えると何と規模が同じくらいで、それを稼ぐためにどのような努力が必要で、そのお金があれば具体的に何ができるのかということを、ひとりの事業家として理解することができる。僕も、あの日から続けてきた日々の努力の積み重ねで、一応ちゃんと大人になったんだよ。プログラミングを覚えて、大失敗の中でそこそこヒットするサービスを作って、日本で4,000万人くらいが利用してくれるサービスを創業して、メルカリという偉大な1兆円企業で、執行役員として、新規事業を担当するプロダクトマネージャーの仕事も経験できた。ファイナンスを勉強して、父が感じたプレッシャーや責任には程遠いかもしれないけど、数億円規模のディールは、これまでに何度も経験することもできた。
普段から父は、息子の僕にはあまり多くを語らなかった。この事件のときも例外なくそうだった。僕が大丈夫なのかと尋ねても「早く宿題しなさい」「担任の先生から、また授業中の態度が悪いと電話かかってきたよ」と、そんな感じだった。小さな町で、それぞれの主義主張がある誰かが、僕の家に電話をかけてくる。僕は、電話の着信音に嫌気がさして、自宅の電話線をこっそりと抜いた。
ヤクザからの脅迫電話と、担任の先生からの生徒指導の電話。
「もしもし。はい。父も母も今日は不在です... 」
***
職業としての起業家という生き方を選んで、10年目に差し掛かかる。会社や事業の売却も何度か経験し、今は4社目の挑戦になるが、幼少期から今に至るまで、父から経営を教えてもらったり、商売について教えてもらったことは無かった。父はゴルフが得意で、県の国体では監督を任されるほどの指導者だったらしいが、ゴルフだって実の息子には、一度たりとも教えようとしなかった。
ただ、なぜか 7歳(1998年)のときに Windows98 が搭載されたNECのパソコンを買い与えられて、少年がインターネットに接続できるという権利を与えられ、年の離れた従兄弟をコンピュータの家庭教師として数回つけてくれた。当時は ISDN、インターネットに接続するたびに電話回線を利用したダイヤルアップ接続のたびに、ピーゴロゴロと鳴る、あれだ。
末っ子の僕は、小児喘息がひどくて小学時代だけでも15回くらい入院している病弱で華奢な男の子で、おまけに小学生時代のある公園の夕暮れの日、滑空するロープの遊具で遊んでいたら頭から地面に転倒し、頚椎を損傷した。食い込んだ奥歯を4本抜く手術は深夜まで7時間に渡って続き、頚椎の怪我は後遺症を残した。数ヶ月が経って、どうやら30分以上同じ場所に立ったままでいると、頭痛と目眩がして倒れ込むという、不思議な症状に悩まされた。当時は、その症状の再現性や原因について全くもって分からなくて、心因的なものだと診察されたりもした。首の怪我は、半年ほどの長い休養期間(小学校時代、北九州市の小倉で療養生活を送った)と、その後の骨格と筋肉の成長とともに少しずつ緩やかになり今では寛解したが、おとなになって心当たりを探りながら調べ直すと、脳脊髄液減少症という病名に限りなく近い症状だということがわかった。そういうわけで義務教育で定められる小中9年間のうち、病欠や不登校で、約2年間相当は学校に行っていない。
身体が弱いと、たいてい人は内向的な性格になる。内向的だと、友だちはそんなに多くできない。でも僕自身の性格は、本来は好奇心の塊で、目立ちたがり屋。だから班長を決めるときや、学級委員を決めるときには手を挙げるタイプだった。そんな、心と身体のギャップに悩んでいた中で、小学校時代の1人の担任の先生の言葉が、僕の心に永遠に刻まれる。
「君はいつかリーダーとして、人を導く存在になるはずだ」
幼少期、子どもの頃に大人たちに投げかけられた言葉は、成長する過程で頭の中を何度も反芻していきながら、いつしか現実に近づいていく。もし「お前は駄目だ」と言われ続けたら、自信をなくしてしまうだろう。僕は幸いにも、これまで数多くの教師とウマが合わなかった中で、たった1人、たった1人の先生に、こうして救われることができた。
そして、僕もいつしか、他者にそんなポジティブな影響を与えられる人、教師、教育者になりたいと思うようになっていた。
***
不登校の身分を満喫している間、もっぱら家でパソコンに向き合って一日を過ごしていた。僕はコンピュータのオタクにはなれなかったが、インターネットのオタクになることができた。要するに不登校+ネット依存症=ニートの出来上がりである。コンピュータそのものに興味があるのではなくて、そのデバイスを通じたインターネットの世界に没頭していた。毎日、コミュニティ掲示板に通ったりしながら、自分と社会との境界線を探っていた。
あるとき、よくアクセスしていたコミュニティサイトが、さほど歳が変わらない人が運営していることを知った。
自分でも、何か作ってみたい。
好奇心が強かったから、「◯◯+作り方」というキーワードをひたすらGoogle に叩いた。Ruby のスクリプトで動く、簡単なゲームを作った。ゲームってこうやって出来ているんだと夢中になった。トレカを CtoC で売買するためのリスティングを載せられる Webサービスのようなものを作った。当時はサーバーで動く CGI というプログラムで、使っている言語は Perl や PHP だった。僕が13歳の頃だった。義務教育から離れて、本をたくさん買ってきて、1日14時間ずっとプログラミングに向き合っていて、それが楽しくて、好きこそものの上手なれか、気づいたら自然とスキルが身に着けた。
ただサービスを利用したり消費する人から、それを創る側、提供する側の人間になっていた。
自分にとって、夢中になり没頭できるものと出会えることが、これほどまで幸せなことだとは。他者と馴染めずに、しんどくて泣いたり、塞ぎ込んだりした日々もあったけど、創るという行為を通じて自分を再発見し、本当の意味で、自分で選ぶ人生が始まったような気がした。地方の古民家のコタツの中から、世界に情報を発信できるということに震えて感動した。「ジリリリ...」今日も、担任の先生から電話がかかる。思春期の多感な時期、僕は義務教育を放棄し、こうしたインターネットブラウザで動作するプログラムと出会って、いくつかのことを悟った。
・インターネットがあれば、これからは個の時代になる。技術を身につければ、学校なんて行けなくても問題ない。
・世界は、もっと知るべき楽しいことがありすぎる。新しいことを試すのに人生は短いかもしれない。毎日、昨日まで知らなかった新しいことを学ぼう。
***
誰もが可能性をもっていると信じたい
生まれながらの才能というのは、世界中で比較的均等に分配されている。一方で、機会へのアクセスは平等ではない。
まず、人は親を選べない。生まれた地域、育った家庭環境、小学校や中学校を過ごす中で与えられた教師の価値観、宗教、差別、いじめ、恋愛、成功体験、黒歴史、初めて就職した企業のカルチャー、上司、同僚、自分自身を取り巻くあらゆる環境因子が、今の自分を構成している。
18歳になって、あるいは大学を卒業して22歳の社会人になった後の「選択」は、すべて自己責任だ。自分の頭で考えて、努力をしなければ誰も助けてくれない。だが、その選択する自分を構成しているものは、それまでに植え付けられた価値観 ──大抵の場合は親であり、学校、1社目の会社、である。歳を重ね、思慮深くなって自分の人生を振り返って新たに選択しようと考え始めたとき、25歳であったり、30歳であったりする。
だが今の社会の仕組みでは、ほとんどが18歳で大学・選考などの進路を選び、あるいは就職先の業界を選ぶ時点で、すでに不可逆的な乗り物として人の未来を暗に決定してしまう。ときに抵抗し、違う乗り物にうまく飛び乗れる人もいるが、ごく少数派だろう。多くの人は、18歳あるいは22歳といった最初の「所属先」を選び、そこで与えられた相対的な評価軸、価値観のなかで自己を認知し始めたとき、その先の生涯年収さえも、ある程度は決まってしまっている。
「自分がやりたいことが分からないんです。」
そんな声が、今日もどこかのカウンセリング室から聞こえてくる。
***
僕の出身中学は、体操の内村航平選手(僕と同じ学年の、内村選手の妹もまたオリンピックを目指していた)と同じだったが、非行に走るような生徒も多くて荒れていた。窓ガラスは時々割れたし、授業中にいなくなるやつも多かった。犯罪とモラルの問題のグレーゾーンにそれらの行為があった。まるでビジネスの世界で非倫理的なことをする企業のように。
ある金曜日の夜に電話が鳴り、隣のクラスの友人が深夜にバイクを乗り回して国道で乗用車と衝突して死んだという。通夜と告別式が土日のうちに速やかに済まされて、月曜日にはいつもどおりの日常が戻っていた。いつも鬼のように厳しかった生徒指導の先生が、その時初めて泣きながら、自分が助けられなかったのかと悔しんでいた。
地方にいる僕たちは皆、だいたい何かに抑圧されていて、上手な身の振る舞い方ができず、等しく貧乏で、そして等しく幸せだった。でも自分の将来にはそれなりの希望を持っていて、漠然とした不安や身の丈にあった悩みを誰もが抱えていた。
90年世代の僕たちは、自身の成長とまるで反比例するように地方の街が廃れていった世代で、帰り道の商店街にあったレアチーズケーキが美味しい洋菓子店も、ペンの試し書きのラクガキのために通った文房具屋さんも、マヨネーズがたっぷり掛かったタコ焼き屋さんも、いつしか無くなり、シャッター街の風景と化していった。
携帯電話が高校生にも普及し、インターネットも光回線になりつつあった。
高校に入学すると、ようやくコンピュータやネットワークについて等しく語ることができる友人ができた。サッカー部のたかちゃんは、昔自宅でサーバーを作って Webサイト を作ったりしていたと話してくれた。でも、今はそんな昔のことよりもサッカーが好きなんだという。情報の授業では、彼と僕だけが、教科書通りの授業はしなくてもよいというお墨付きをもらって、僕はひたすら Visual Basic で、囲碁のゲームや、タイピングゲームを作っていた。
浪人の末に入った大学では、インターネットの父・村井純先生や、Appleでフリック入力のUIを開発した増井俊之先生に従事し、インターフェースの研究や実世界ビジュアライゼーションの研究を行った。後輩として入ってきたタレントの池澤あやかにHTMLやWeb開発を教えたこともあったり、学部1年生向けの情報の授業の Teaching Assistant をバイトでやっていたりした。会社ではインターン生の面倒をみたり、何かと人に教えながら、その成長過程を見守るのが好きだったなぁと思い返す。
そんな感じで時は流れ、携帯電話は徐々にスマホになっていった。
かつて高校時代、技術談話で唯一盛り上がることができたクラスメイトのたかちゃんを Labit の起業に誘ったのは、2011年、高校を出てから別々の進路を歩み始めた2年後のことだった。「そろそろ東京に来ないか?きっと人生が変わるよ。」という趣旨の長文ラブレターを送り続けて、半年後に根負けした彼は、地元の SIer から、駒沢通り沿いにある北向きの 1LDK のマンション・ベンチャーの会社にジョインしてくれた。そのマンションは、会社の登記拠点でもあるが、従業員2名の住民票も置かれていた。当時はまだ知名度も低く英語でしか開催されていなかった認定スクラムマスターを取得し、技術とはかくあるべきという信念を持った彼の思想を通じて、僕はチームで行う開発や、ソフトウェアとの向き合い方を学ばせてもらった。当時 Labit の CTO は、まだ東大に在学中だった @y_matsuwitter で、彼は Anonymous のお面を被り、たいていバランスボールで仕事をしながらいつも独り言を言いながら、変態的なコードを書いていた。
そんなメンバーで「すごい時間割」を作って、ユーザーが20万人、授業が100万件を超えた頃あたりに、民主化した授業レビュー制度のプラットフォーム化を目指した。思い返せば、このときから教育に関わる事業を行いたいという気持ちが、根底には合ったのだろう。大学の授業に対するレビュー・評価を、ユーザー側(学生)から投稿する事が出来れば、つまらない授業も、教授が意識しだして工夫をするようになるかも知れない。現実はそう簡単ではないが、一石を投じることはできるかもしれない。
ただ、当時 Facebook や Twitter が学生にも浸透していく中、大学生特化のツール型のクラウドサービスは、RRが異常に高く記録できる一方、滞在時間が短いという課題もあり、学生ベンチャーが長く運営していく体力は持たなかった。そんなこともあり、志半ばにリクルートにバイアウトした。そこで計上した特別利益で、次の事業を作ることにした。
たかちゃんと松本くんは、それぞれ違う道に進み、たかちゃんはクックパッドを経て、今年上場を果たしたロコガイドの取締役技術本部長として穐田さんの右腕をやっている。トクバイは、毎日自炊をする僕にとって毎日使うアプリになっている。松本くんは創業間もない Gunosy に移って CTO を努めた後、今は DMM で CTO をしている。中学時代からネットで知り合った Co-Founder の西尾健太郎とは、俺ら昔からゲーム好きじゃんねということで、Labit の子会社としてゲームエイト社を創業し、彼に社長に就任してもらって、昼夜ゲームをしながら、コードを書きまくった。1億PVの達成とともに Gunosy に株式を譲渡して、傘下に入った。
事業譲渡、子会社のカーブアウトによる M&Aの 経験後、みんなが違った道で活躍していく中で、Labitの第二創業期として今度は広告に頼らないプロダクトを作りたいと考えていた。コンセプトを語っていると、楽天に居たちゃーりーや、その後メルペイのUXの一端を担う中山さん、同じく楽天に内定を持っていた新卒の chiaki と出会った。2016年、満を持してバーコード出品に対応し、内部にDB化を実装したジャンル特化型フリマアプリ「ブクマ」を作り、宮崎の IVS でプレゼンした。2011年のように、優勝はできなかったが、その LaunchPad の後に、まだ当時100億のGMVとしか公表していなかったメルカリの小泉さんと松本さんから「一緒に大きな船に乗ろうよ」と言われたときは、心から嬉しかった。そして1年後、僕らは IPOを控えたメルカリに acqhire されて、1,000人を超える組織の一員になった。
メルカリでは、オンラインの習い事のCtoCサービスとして「teacha」を作ったが、リリース当初には十分なトラクションを得られず、悔しさと共にクローズも経験した。メルペイにリソースを割いていく組織人事となり、イノベーター役として期待されていた僕の進退についても、進太郎さんと相談の上で退くことにした。teacha は、コロナの今の時代にあれば多くの人の役に立てただろう。もらっていた大半のストックオプションを捨てて、トルコ・ギリシャ・イタリアの地中海をしばらく一人旅して回りながら、次に何をテーマに起業しようかと、ぼんやり考えていた。
僕は健康という点ではひどい幼少期を過ごしたが、今思い返すとその命の有限性に接するフィジカルな体験は、自分の起業家たる精神性を支えるバックグラウンドとして、強く機能を果たしていると、この年齢になって初めてポジティブに受け入れられる事ができるようになっていた。
***
30歳になったら、投資家になると決めていた。
20歳で出会った、僕の人生を変えた投資家が3人いる。
僕にとって、第二の父、東京の父という存在である、ネットエイジの西川潔さん。ネットエイジは現在、合併等を経てユナイテッドと呼ばれる企業になった。西川さんは最初の起業の際、シード投資で入ってくれて、その後の太いパイプ役になってくれただけでなく、半年間、プライベートの実家に下宿までさせてもらった。
僕が人間関係を含め、経営課題について幼稚な悩みから焦燥しメンタルがダウンしている頃に「もっちが居なくなるのは、この業界の損失だから休むことも大事」と、優しく声かけてくれた川田尚吾さん。2011年、日本にまだ数台しか無いテスラに初めに乗せてくれたり、彼と交わすガジェット談話は本当に面白かった。
同郷である木村新司さんからは、六本木のスタバで「バリューを出せないなら長崎に帰れば」と、厳しいことを言われたりもした。「ブクマは成功すると思う」と、シンガポールに帰るフライト時刻の予定を超えてまで、数時間もの投資ミーティングに付き合ってくれた。僕はこの人に、いつか「よくやった」と言われたい。正しい動機じゃなかったとしても、起業家として、そんな動機があっても良いじゃないか。
彼ら投資家にとっては、数ある支援先や学生相手などに話す、なんの変哲もない日常的な励ましのコミュニケーションの一つかも知れないが、僕はそれら一つ一つのフレーズを心に強く刻み、鮮明に覚えている。十年経っても忘れられない一言というものはある。そんなカッコいい投資家に支えられ事業をやっていたものだから、僕がもし 20代 で、何かヒットサービスを作れたとしたら、30歳を過ぎたあたりには、次世代の起業家を支援するファンドを組成して、投資家サイドに回りたいと考えていた。だが、2019年になって、改めて周りを見渡してみると、はたしてどうか。
周りは、投資家だらけだった。右を見ても左を見ても、投資家ばかりだった。プレイヤーよりも、お金の出し手ほうが余っていたのは、誰の目にも明らかだった。
他の人が十分うまくやっているし、自分はまだプレイヤーでいるべきかもしれない。
そんな中でプライベートでは入籍、子を授かるイベントがあった。そうか、俺も父親になるのか。おかしいな、つい最近まで自分はガキだと持ってたんだけどな。その瞬間、ふと「自分がずっとやりたかったこと」をやるべきではないのか、いや、やりたい、それしかない。と、心の声が聞こえてきた。
それは、起業家になることよりも、ヒットするWebサービスを作ることよりも、まして投資家やアクセラレーターになることよりも、ずっとずっと昔から、心の奥底に根付いていた夢だった。
そうだった、僕は教師になりたかったんだった。
そして僕は、「教育に投資をする」というコンセプトで、
新しい事業計画書を書き始めた。
後編に続く
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