月モカ!!vol.268「商売と文学と双方の目線で」
思い切ってパソコンを買った。正確には発注をした。
商売人の常連陣に「女主人は数字のことはもやかしておきなさい」とさんざ言われているが、2年ぶりに黒字になるかもしれなかった11月にいま少し数字が届かず夢破れた。店の黒字に小説家としての挑戦、今年正直「夢破れて」ばかりいる。♪I had a dream my life would be…So different from this hell I'm living〜とレミゼの主題歌をアンハサウェイそっくりに歌い上げてもよいところなんだが、どっこい自分は今幸せである。足りないものはお金だけなんだ。しかしこれって難しい。物事には双方の目線がある。いや、お金がないと完璧に幸せではないだろう。先日の4姉妹の集まりでも、あまりの不甲斐なさにわたし泣いた。わたし泣きました。
どうしたらいいんだ、今までこんなに頑張って、お金がついてこないことなどなかった。だからお金は働けば稼げると思っていた。
幸せはついてきている。店は4年半かけて至極いい感じに仕上がってきているし、小説やエッセイも「今こそ書けるものがたくさんある」感じがする。
物事には双方の目線がある。
今思えば自分は商売人の娘だったんだな(現在できそこない中)と思うのだが、若い頃から「年令給」というようなものを目指してるところがあって、
好きなことをしていれば貧しくてもいい、という考えではそもそもなかった。なので女優を目指していた時も「好きなことをしているけどこのまま30歳になるのは違うな」という感じがあって一念発起、
28歳の時小説を賞に出して現在に至る。
なんていうかさ「好きなことをしている」というのは、放っておいてもそれを24時間やってしまうわけなのだからさ、絶対にそのことをイヤイヤやっているやつよりは稼げるだろ!という基本の考えがあるのだが、ところがどっこい、小説でも、店でも、ろくな稼ぎにならぬ時間が2023年現在続いている。もはやこれに耐えることが世界の最終卒業試験で、クリアしたら億万長者になっちゃうのではないかと思ってしまうくらい。笑。
で、話が逸れたので元に戻すが、そんなわたしですが12月の星占いが「しいたけ占い」も、最近溺愛中の「SOLARITA」でも【今は自分に投資をする時】と言われたので(これはもうmacを買えってことやんな)と思い、今宵思い切って発注。当然ローンです。正確には先日ペイディ後払いで発注したが、ペイディの設定をそういうやつにしてなかったため注文がステイのままキャンセルになったので本日改めてオリコ。一度ストップしたのは何かの思し召しだろうと思い、当初予定していた13インチのProよりも15インチのAirを買った。これは中島桃果子を重んじるチョイス、わたしはやっぱりこれからも原稿用紙を俯瞰で見れるディスプレイで小説を書いていくのね。笑。
2016年からこのパソコンを使っているから、このパソコンは小説家のパソコンとして憂き目を見たけど「時雨美人伝」や「Utataneの戯曲」など人に知られるよしもないが素晴らしい作品をたくさん書いたし、現在地下に眠ってる感じだけど今後スパークするかもしれない作品だってこのパソコンで3作書いた。なので大変労いの気持ち。このパソコンが生きてるうちに「月モカ」を書きたいと思った。思えば月モカは2015年から始めたからほぼほぼこのパソコンで200十数話を書いてきたのだ、お疲れ我がMacよ。
ところで小説家FBに先週と今週とやたらに新規ビューがあって、
全く売れてないわたしになぜこんなにビューがあるのかとても不思議だが、じゃあいっちょ新しいエッセイでも書いてみましょかという気分になった。
で、本題に入るのであるが、何について考えているかというと業界の腐敗と時代の潮目についてである。それをとことん考えるにやっぱ「商売と文学と、双方の目線で」語らないと語弊が生ずるなと感じた。
あまり批評とかコラムに向かないタイプなので私小説エッセイ的に綴りたいがわたしがこの3年考えるに、出版業界の腐敗甚だしく、わたしは正直、今後も独立独歩で「腐敗とは距離をとって」ゆきたい。
(なのでプロフェッション広報Mと組んだ)
正直に言えば、この3年でわたしが受けた大手出版社からの手のひら返し塩対応って凄かったなという私感がある。デビューしてから数年はずいぶん持ち上げてもらっていただけにその落差たらすごい。
(え?わたし中島桃果子だよ!?大丈夫そんな対応わたしにして!?)
と上からリアクションしたいところだが、ここで商売の目線があって、
第一線の現場から数年席を外したのお前だからな!という感情が自分に対してある。
現在、市井の酒場最前線で毎日店に立ち続けている女主人としての自分が感じるのは「コロナ渦を体験したかしないか」で全然現場感は違うという確信がある。例えば昔飲食店を経営してたけど、コロナの間ちょっと他の商売とかやってて「コロナあけたからまた店でもやろうと思って」っていう人はかなりキツイと思う。最近参考にみているローランドさんのホストTVでもやっぱりブランクあって戻ってきた人は昔すごい売り上げだった人でも指名が全然取れず売り上げが上がらず苦戦していた。(しかしそのブランク2人が2023年12月現在頂上決戦をしている。やっぱり勝てる人は勝つんやな)
なので↑このホストさんたちみたいに感覚を取り戻してまた繁盛させられる人もいるかもしれないけど、とにかくスタートは難しいと言い切れる。
今はフェーズが変わるのが早いし潮目が変わるのが早いから、
普遍的なサービスを根幹に保ちつつ汎用性も高くないといけない。
あとお客さんが飲食店に求めることや「ここにお金を使いたい」と思う力点も日々全然変わってきているので、感性の更新がまじ週1レベルで要る。
自分は酒場に関しては時代最前線の自覚があるので、
そういう意味では2020年に数年ぶりに小説を書いた時には、
多少の時代感のズレというか、自分の文学が時代に合ってなかったんだろうなって、思った。だから太宰賞が下読みで落ちたのは納得している。
しかし春先に書いた「K192」は太宰賞に出した「わたしと音楽…」が落選したのちそれを「東京OASIS(2021)」に書き直して、それすら丸々却下になって(編集/盟友・壷井円)その後「宵巴里」に書き直して、
それを刊行したのちの執筆であるので、わたしは完全に勘を取り戻したどころか時代の先をゆく文学を書いた自負がある。
しかしそれが下読みで落ちた。
なんでこの話をしているかって言うと、自分の話をしたいんじゃなくて、
亡くなった人がいたでしょう? ラノベの作家さん(漫画家さん)で。
こういうことがあると、自身がデビュー時から経験してきた「納得できなかったこと」「自身の哲学を曲げさせられたように感じたこと」「バカにされてるように感じたこと」に対して、基本的には(自身にも落ち度や改善の余地がある)と考えて咀嚼してきたその行為が「果たしてそれで良かったのだろうか」という気になってくる。わたしはオノマトペを大事にしてるので擬音語を多用するが「擬音語で表現するのは文学ではない」と赤を入れられた時の不納得。かの素晴らしい佐野洋子さんの「おじさんのかさ」を知っていますか!?(雨が降ったらピッチャララン♪ですよ!と言いたい!)
同じ編集者に「ジブリみたいな森とか小泉今日子みたいな女の人」とかいう表現も普遍性がないからするなと言われたけど、結果今絶版になってしまってる現状でこの15年の普遍性ならあったと思うし、昭和初期研究家としてはその時代の独特の流行り言葉を解析するのも喜びだし、問題なかったんではないかと思ってる。その編集者は「デビュー版元は作家に一生よりそう」という理由で「数字になりそうだからと駄作は出さない」と言われてその後却下されまくってきたけど、それを踏まえて2020年に書いた新作は「読む予定もない」と言われた。あなたがわたしに対して持つ想いすら小泉今日子よりも普遍性ないのによく言えたねと言ってもいいですか?
またデビューしたとき「下読み」なぞというものが存在すると知らなかったわたしは、小説を賞に出せば江國さんが読んでくれるもんだと思っていたので受賞後「じゃあ別の人が下読みだったら落ちてる可能性もあるんですね」と訊いた。その時返ってきた答えは「このレベルの作品が下読みで落ちることはまずないです。誰が読んでも上がってきます」だった。
じゃあそれから何冊も本を大手から刊行して、今トリプルアクセルを飛んだわたしの最高傑作がデビューした賞より小さな賞の下読みにも落ちるのはなに!?(もはやデビューしたけど数字を生まなかった不良債権リストに入ってるんではない?!)
月モカ読んでくれてる人は、モカコさんこの案件めっちゃこだわってるな、しつこい、と思うかもなんだけど、結構重要なことを初めてこの角度から語っているので許して欲しいのだが、わたしはいまとても幸せで——言いきかせてるのではなく幸せのコツはないものよりもあるものにメンションする暮らしだとわかってそれに肚落ちして、それにも鍛錬がいるのだが〈ないものや失ったものを人はつい想ってしまうから〉この5年で時間かけてコンプリートした!その完成aka/Happy文学がK192——イーディも数字たってないがいつも人で溢れているし、ともかくK192のような作品書けて幸せだし自分天才と思っているし、何より店があることで、店に来たお客さんから店に貼ってある192の抜粋を読んで「これはどこで読めるのですか?」と聞かれる率がこれまでの小説の抜粋と比べて格段に高いので、これは(わからなかった方が気の毒だな)とか思えているけど、つまり売り上げを除くといつも自身を肯定されているので(数字だけがわたしにそっぽ向いている…….上半身は振り返ってるかな)でもこれって一歩間違ったら
「わたしはデビューした時よりもどんどん悪い作品を書いているのかな」
と思うに値する出来事である。なので一貫性のない審査基準はこのように一人の作家を混乱させ、時に死に至らせることもある。
わたしはこのテーマですぐにゴッホを引き合いに出すのでみんな「極端だなあ」とか言うけどこっち当事者だから全然極端じゃない。あんなに凄い作品を描き続けていたのに、誰もその価値を見抜かなかった。そして生前には2枚しか売れずに自分で耳を切って、そしてピストル自殺をした。全然人ごとじゃない。敬愛する志磨さんの楽曲に「僕はゴッホじゃやなんだ!」って歌詞があるんだけど全くそう!
自分だけが自分の作品を信じていて、でも誰にもそれが見えなくて、自分は裸の王様か狂人なんじゃないかって思う。その感覚と戦う。だって戦わないと死んじゃうから。そのために店に貼り、信頼できる友人たちに送る。
死んでからじゃ意味ない、生きている間に知りたい、これが本当に名作なのかどうか。名作じゃなくてもいい、誰かの心を打つ水準のものであったかどうか。プロが15年かけて出した渾身の答えが、玉石混交の”石”を落とす「下読み」で、落ちるようなレベルのものではなかったと証明したい。
でも「数字出せてないんだから仕方なくない!?」
これもまたある目線からいうと至極真っ当な意見でもある。
数字。すなわち売れること。小説家としてカルト的人気を誇ってる。しかし文壇の不良債権。女主人業。作家業より汎用性高く幅広く慕われているし、お店は賑わっている。なのに店が黒字にならない。
これって本当にどう解決したらいいんだろう。
例えばわたしはわかってる。もしnoteでのスキ💓とかインプレッションとかを伸ばしたいならもっと短くキャッチーなエッセイを、回数投稿しなくてはいけないことを。だけどわたしはエモく長く語りたいんだ、最初から最後までフレンチのコース料理でいい。なのでnoteでの評価を伸ばそうとは全く思ってない。だけど売れようとしないことは悪でもある。それもわかる。
特に編集者は自分が書くわけじゃないからやることって「売れ線」に寄せること、言い方よくすると「広がりを持たせること」をするしかないし、出版社の社員であればなおさら母体に有益なコンテンツを生むよう頑張らなくてはならない。
文学や芸術ではここらが線引き難しいんだけど、水商売ってめっちゃシンプルで売り上げあげてる人、お客さん持ってる人が一番偉い。遅刻しても休んでも勤怠悪くても許される。(勤怠に関してはオーナーやトップの考え方によるが)。だからうちの栞も夜のお客さんを接客できない時期は、その分それができる人を入れてお金を払わねばならんので給料が低かった。
人で測るとややこくなるとするなら酒で考えるとすごくわかりやすい。
なんていうかな、まずビール絶対主義なんだけど、いくら質が良くても千円超える売値だと売れない。つまりここではクオリティと金額のすり合わせがめっちゃ大事。次に角ハイさんとかレモンサワーさんとか、うちでは700円にしてる子たち、これがまあ杯数でると原価が安い分、稼いでくれることになる。で、うちにはハードリカーが相当あるんだけど店の特性上「それを安くすることで」リカー好きのお客様の穴場になっているところがある。
例えばさ、いいカルバドスとか本当は1600円くらいで出したい、しかしうちはオーセンティックじゃないからそんな価格じゃ誰も頼まない、みたいな攻防があるわけで、でもそれでもいろんなものが森のようにあることに我が店の価値はあって、かつて出版界ってそうだったんじゃないかなって思う。
あんまり出ない、から価値がないんじゃなくて、数字を生まないから不要なんじゃなくて、例えばお客さんにも毎回の支払いの単価が高いわけじゃないけどその人がいるとなんとなく店の空気が良くなる人とかっていて、
うちグリーンカレーは具が大きいから高めなんだけど、その贅沢さをわかって頼む人が一定数いて、だからこそモカコパスタは安さと(あまり作らない)ってことで売れたり、品物って絶対価値と相対性の中で売れていく。
そういう意味では”中島桃果子”って本屋に置いとく方がいいんじゃない?笑って思うんだけど、今は刊行するすべての書籍に「コストを回収できるか」が乗っかってるんだろうなって思う。それでもわたしは隙があったら”キルケラン”の旧デザインボトルとか、仕入れるけどね。
なのでわたしは出版界ざっくりとは考え方が違う。
同時に、だから黒にならんとも言えるよな。
これまでの15年くらいのこと、考えた。
いま「パワハラですよ!」と強く言われていることが「全然普通」だった時代から今までの自分の日々。夜の店で働いてたら「ブス」とか「デブ」とか「おまえかよ」とか「実家帰れ」とか「どうせ彼氏とかいないでしょ」とか言われるの当たり前で、それに反抗するのは仕事意識が低いみたいな考えがあったなって思うけど、今は「仕事だからって誹謗中傷OKと言ってません」みたいな時代だよね。でも昔はそこに抗ったらきっとクビとかになったり、売り上げもないのに仕事しないホステスみたいな感じだったろうから、
結局そこにも数字の目線が入ってくる。
だからねいま女性が女性を非難する動きとかあるけど、
きっとかばうことができなかったシーンてあると思っていて。
今日クビになってもいい女性と、シングルで子供育てていて絶対クビになれない女性と(きっと時間の融通もききにく不利だったはず)いろんなシーンあるから過去のことを鬼の首でもとったように「あの時あなたもハラスメントに加担した」とか言って欲しくないなって思うの。
シスターフットの運動とかわたしがたまに怖いのはそこね。
イーディのママとかセクハラされてもヘラヘラ笑ってるもんね、とかって攻撃されないかヒヤヒヤしちゃう。
(撃つ時、思い切り撃つために、あと新しい価値観の中でいきなり「イケテナイおじさん」にされて肩身が狭い男性陣のためにも、スタッフがいない時の自分への誹謗中傷ギリギリの冗談はうまく笑いに変えて打ち返してるの、わたし一人だったらわたしの問題だからね。そういう本当のシスターフットであり生きにくい時代の穴に落ちた男性讃歌でもあるの)
デビューしてからもきっとそういったことってあって、
でもわたしはとにかくデビューから5年は江國さんのおかげかもやけどとても優遇されてた、しかしラノベの世界ではちょっと「???」ってこといっぱいあって、でも割と「これがラノベの世界か」「じぶんが不勉強だった」と思ったりして順応してたかなとも思う。
わたしは執筆の同業に友人と呼べる人は一人しかいなくて、その人は詩人なんだけど詩の世界と小説の世界はやっぱ似て非なるものがあるなって、彼女と話しているとすごく思うし、今、商業的には対極なシーンを生きているわけなんだけど同時に何かあった時には同じ疑問を持てる関係にいたりもして、あの特殊なひと月がなかったら性格的には交わることがなかっただろうからわたしは彼女に運命的な何かを感じるんだけども、
(わたしのすぐ下の妹めっくすと彼女が、運命の出会いがなければこうして関わることはなかったくらい性格が違う笑)
わたしはやっぱり商人の娘なのか「ラノベは買い手主導の世界ですから!」と言われると「そういうもんか」と思って頑張ったところもあったな。
ただ自分は割と旧体制のやばい時代を生き抜いたタイプの割にはディスコ時代もClub時代も商業小説家時代も、割と「それだけは違うよな」ってことは曲げずに来たしちゃんと戦ったかなって思う。
戦った記憶って思い返すと「なにこいつ意味不明のこと言ってる」って処理されてたことへの不納得と自身が裸の王様みたいに扱われた恥ずかしさの感情があるんだけど、時代が経つと「あの怒りって真っ当だったな」って思う。銀座のママに詰められたとき、ママはチーフと「宵巴里」に登場する柚豆子さんにあらかじめ残るよう指示を出していて「あんたと一対一で話すとらちがあかないのよ」って3対1の構図を作ったんだけど、
わたしはそれに怒り狂って泣きわめいた。だってママと、ママが支配している従業員2人残して詰めるってそれ中学生のイジメの構図やん!
チーフも柚豆子さんもわたしをすごくかわいがってくれていたからママが帰ったあと残って二人でいっぱい励ましてくれて、でもママの前ではどうしてもママをフォローする側になって(合わせていたというよりそれはモカちゃん間違っているというその時代の常識だったのかも)ただ、そういうこと柚豆子さんは後から何度も思い返して悔いるタイプなのにそういう構図を命じて作ったママをあの時許せなかったけど、6年経った今でもあの怒りは間違ってなかったって思うな。
逆に自分がSNSリテラシーがなかった時に肖像権とかあまりわかってなくて、それこそ友人の詩人ちゃんと撮った写真とかベスフレ(姪)の写真とか勝手にSNSに載せちゃったりしてたり(わたしが撮った「わたしの写真」だと思っていたんだね解釈として)わたしは妹たちが年が離れているので自分が普通と思っていることを「それって違うくない!?」とかってよくなって(え?なにが違うの?ちょっと神経質すぎない)ってわからなかったことも今はやっとわかってきたので、友人の詩人ちゃんが戦ってきたものが一体なんだったのか今はすごくよくわかるし、わたしは彼女が戦ってきたものに虐げられながら抱かれてもきていて、つまり恋愛のように絡まったヒエラルキー世代を生きてきたのだな。昭和初期の人が不妊の時に今の時代で考えたらそれは男性側の問題だったかもなのに「お妾をおとりください」って言うのが出来た嫁のセリフだったみたいに、時代の渦巻きの中では見つけにくかったものもあるよな。だって「おはようございます!」って挨拶しに行ったらおっぱい触られて「あれお前生理近いの?」とかそういうの普通に言われてた夜職でいくつも働いていたのです。そういうバグが今の50代男性女性陣、絶対権力を振りかざしてきた大手企業にも起きているよな、と思う。
長くなったのでまとめに入るんだが、つまりいつの時代も「収益を出さないといけない」わけで「ヒットメーカー」は優遇され「不良債権」は冷遇されるわけであるから、正直、自分に関してはこの3年にされた色々な対応に関しては「自身のブランクがもたらした当然の結果」かなと思う。
かといって自身がここからまた商業的に「陽のあたる場所」に出て行った時に、わたしの作品を下読みで落とした奴等が急に”感じいい”態度してきたって「お前がわたしにしたこと忘れないよ」っていうのは人の気持ちだよね。
同時に時代の潮目において、どうか「妾をおとりください」って言った人が勝手な時代の光の屈折で加害者にされることは避けたいって思うんだな。
その人はやっぱりその時代を断面図で見たられっきとした被害者なんだと思うからさ。
わたしはいま、栞珈琲の新しいブレンド5つのポエムキャッチの仕事をしている。「(桃果子さんが降ろす言葉なら)なんでもいいです」と言われた。
自分はきっとこういう仕事しか今後もできない。的に当てるのは、苦手だ。
わたしの中に降りてきた言葉やシーンを形にして、それに人がついてきてくれる形にしたい。天才ぶってるとかじゃない、それしかできないんだ多分。
ラノベは向かなかった。はなから文芸が向いていた。
でも気づかなかった。商業作家たるもの、仕事を選んではいけないと思っていたから。それに気づいた今、文芸に椅子はない。
たださして問題はない。
腐敗から遠く、距離をとることが、やっぱり数字よりも大切に思える。
この人のつぶやき、秀逸すぎていつも引用しちゃう。
<月モカvol.268「商売と文学、双方の目線で」>
※月モカは「月曜モカ子の私的モチーフ」の略です。
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☆モチーフとは動機、理由、主題という意味のフランス語の単語です。☆このページを通じて繋がってくださっているあなた! あなたの「いいね!」はわたしの励みになっています、いつもありがとう。
長く絶版になっていたわたしのデビュー作「蝶番」と2012年の渾身作「誰かJuneを知らないか」がこの度、幻冬舎から電子出版されました!わたしの文章面白いなと思ってくれた方はぜひそちらを読んでいただけたら嬉しいの極みでございます!