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第24話 ✴︎ 「絶体絶命の時にできること」By"イーディ/InnocenceDefine”✴︎2024✴︎

絶対絶命の時にできること。絶体絶命の時に繰り出せる技は「諦めない」という技しかない。そして「それしかない」その技が最終的な大逆転の風を起こすのだと、昨夜のスケートボードの堀米選手と体操団体の大逆転の金メダルを見てつくづく思った。そして「諦めない」という技は、これまでの自分の人生や努力や歩みに対する「忠誠と献身」から放たれる大業なのだと。
勝利と絶体絶命は背中合わせで、なぜなら極限のところでもう1つリスクをおかして攻めないと勝利は手にできないし、同時にそれが失敗した時人は絶体絶命に陥るからだ。そしてその先に本当の大逆転がある。

2024年7月のイーディ。

2024年になって、いよいよ「分断の時代」が加速していることを日々市井の酒場最前線に立って感じている。ゆえにオリンピック一つとっても常連陣のリアクションは真逆で「そんなもんまだ見てんのか」って感じの人もいるし、あの開会式を「極左政権の悪趣味な宴、フランスは終わった」と感じた人もいるし、これまでだとL字カウンターに座ったみんなで安全に盛り上がれた「オリンピックの話題」が逆に政治色強目の諍いの種火になるのを2020年あたりから感じていたので今回のパリ五輪については表だってオリンピックオリンピックと騒いでいなかったら、一番親しい常連のエコ氏(「宵巴里」に登場します)に目を丸くして「どうやったらオリンピックにそんなに無関心でいられんの!?」って感じのリアクションをされて、
元々「オリンピックお祭り女」のわたしは、他者から「ジュディマリを聴いた方がいい」と言われた気分になり(元ファンクラブである)、
思わず息巻いて「わたしにオリンピックを語るな、わたしに語らせろ!」って感じになったのであるが、笑、とにかくそんな感じで分断著しいので、
一応機材的には店を営業しながらすぐに中継にアクセスできるようにしているが、そこはなんとなく全体の雰囲気をみながらいこうと思っている。

最近夜のオープン前に”ござスペース”にてポールストレッチなどをやっている。

個人的に分断の時代において難しいなって思うのは「あなたはそうなのね」って感じの「みんな違ってみんないい」が薄れていることだ。
仮に平和な時代だったら同時に開催初日を迎えた「フジロック派」と「オリンピック派」がおり、まあわたしは両刀なんだけど、どちらかの派が、どちらかの派を拒絶したり攻撃したりすることはなかった。それらは一緒にレストランに行って片方はオムライスを頼み、片方はハンバーグを頼むことと同じようなもので、つまりは個人が好きにすればよかった。

今もまだ「攻撃」とまではいってないが例えば仮に「オリンピックなんか見るかよ」っていう人の「オリンピックNO!」が多少見ている人への「頭の中お花畑なんですねこんなに日本がボロボロになってきているのに」って感じの含みを感じる感じがする。逆に開会式の「あのLGBTQのサーカス宴はないでしょ!」とか「あのマリーアントワネットは悪趣味すぎ」とかそういう意見に対して、もう分断目線で見ているから「じゃああなたは性差別者ですね」とか「表現の自由はどこへいくんですか!?」とかって、なんかこう、言葉でカテゴライズされて括られる”幅”がついつい大きくなってしまって全てが極論で語られる。「演出が悪趣味だ」と言いたかった人が性差別者にされ(もはやあの演出は極端すぎて逆に性的マイノリティの人への差別を助長したんではとわたしは思うのだけど)、

「表現の自由」や芸術——特に芸術は尖っているべきだというような考え方の芸術——で括られてしまった場合に、パンチ効いててアーティスティックではあると思うんだけど、同時に運命に翻弄された一生を送って処刑されたマリーアントワネットが死んでなお何重にもこうやって世界中の前で再びみせしめにされ彼女の一生がいつまでも轢き殺されることに関して「マリーアントワネットの亡骸が抱きしめられる権利」とかは存在しないのかとか、思うわけだけど(十代半ばで政治同盟のために祖国を離れて異国へ嫁いだオーストリアの少女はある意味フランス革命や時代の被害者とも言えませんかね)とにかく分断が激しくて、多様性を謳う割に思想が白黒二色みたいな感じであるから「もう1歩下がったところの焦点から全てを見たい」自分などは、ともすればこの大変な時代に「自分を持たない」人間のように思われることがあるし、ともかく色々難しい。

今年も蓮が綺麗に咲いていた。

そんな中で自分が貫いていきたい思想、この乱世を生きるにあたって大事にしたい信念は「全てを他責にしないこと」Self Responsibilityの精神である。そしてそんな精神で5年の間攻めの一手で突き進んできたイーディは再び絶対絶命の危機を迎えている。やっと4月に2年ぶりか?の黒字になったのに、そこですぐに小さなガレージを借りるなどという冒険(攻め)に出てしまったのは己の責任であるし、思ったよりも5月〜7月と売り上げが伸びなかったのは我々の責任ではないが、それを見越せなかったのはわたしの責任である。

まあ、そんな状態に追い込まれて背水の陣で8月を迎えるので、
やっぱり世界のトップアスリートの姿を目にし、何かしら一つのヒントでも受け取れるよう、また小説家として今後どういうスタンスでものを書いていくかを見定めるためにも、わたしはやっぱり開会式を最初から最後までくまなく見て、気になったところは調べて裏をとったりもするし、競技そのものに関しても、世界の頂点を極める人の戦いをなるべく生で見たいと思うのである。

2024年の2階はござスペースを窓側に。

オリンピックって「ニュース速報」のテロップだけで金とか銀とか銅とか見ると金の人はやっぱり強くて銅は3番目かって感じに受け止めてしまうが、生で見ていると入ってきかたが全然違って「あの妙な判定がなかったらきっと絶対決勝まで行って勝ってはったであろう人の銅」とか、そんなんがある。テロップだけ見ていたら体操団体の日本がどれだけ中国に引き離されていて「金」など目指せる展開でなく素人だったら「メダル圏内にさえ入れば」と目標を平気で下げてしまうくらいの点数差であったこと、
スケートの堀込選手がラストランの前は3本全部失敗していて得点が0だったことはわからないから「連覇か、やっぱり強いんだな」で終わってしまうと思う。いや、確かにやっぱり強いのである。だから連覇をするのであるが、
その人たちの「強さ」というのは「絶体絶命の時に”諦めない”という技を繰り出し続けられる強さ」なんだと、昨夜、あれを見て痛感した。

なぜ痛感できたかというと今イーディがまさに絶対絶命だからである。
(すみませんこの「ひとかどアーカイヴ」の更新が半年ぶりなのでまたおいおい補足投稿しますが去年11月から一つギア上げて頑張ってきて、3月にちょっとした金策に成功し4月に黒字になって、このまま上がるなと思ってガレージを借りてしまい、また絶体絶命、今度こそ絶体絶命の事態に瀕している)

もちろんここで自分も「諦めない」という技を繰り出すわけなんであるが、
その技の程度や方向性などを、マジで絞って繰り出して行かないと、もう先に待っているのは絶滅である。

とりあえずこのガレージには空調がなく、また空調を買うお金もないため、
この狂ったようなような酷暑の夏は動かしようがないのであった。

だけどここで勝ちにいくために彼らはリスクを背負って「最高峰の技」をやることを選ぶ。もちろん体操の最後の鉄棒のように「0,1点」を調整するために1つくらいはわずかに難易度を下げた技に変更することもあるが、
どちらにせよ「全力で攻め」にいくことは間違いない。

ちょっと前からわたしが「芥川賞を獲る」と言い出したので、皆が「なぜそれが欲しいのか」とか「直木賞の方がいいと思う」とか、まあみんないろんなことを言うわけで、素人のお客さんもそう思うだろうけど出版界の人ならもっと「え」「何を言い出した」と思うと思ってる。だけど去年の傑作「K192」がデビューした時に獲った賞よりも俄然小さな賞の下読みで落とされ続けた今、わたしができることは自分がかつて獲ったことある賞より遥か高い位置にある賞を目指し、それにまつわる関係者に「あの小説が理解されるかもしれない」希望を託すよりないのである。そのためには全力でこの夏改稿する所存である。つまりわたしは「芥川賞が欲しい」のではなく、
絶体絶命下において「諦めない」という攻めの一手を打つことを決めたと言うことなのである。獲ろうと思って獲れる賞ではないので(構造的に)、
これをオリンピックに例えるとまず「出場権」を勝ち取らなくてはならない。けれどももはや「出場すら危うかった」堀米選手が、しかもラストランまでは7位に沈んでいた堀米選手が一発逆転して金を獲ったことを思うと、とにかく今の自分にできることはイーディと歩んできたこの5年および小説家という職業とともに歩んできたこの15年の人生に忠誠と献身を表し、
最後に大技を繰り出すより他はないのである。そんな時に「そこそこの技」を繰り出すくらいなら潔く負けを認めて撤退した方がいい。
なぜならそこそこの技の加点では絶体絶命を脱出できないからである。

イーディ㊗️5周年の朝(2024年6月1日)

諦めないという技を繰り出していると、時々思ってもいないところから扉が開くことがある。つまり体操団体の決勝の時もそうであったし荒川静香さんが金を獲った時もそうだったけど、能動的に勝敗を変えることが困難な状況において(体操でいうとこのまま行くと物理的には絶対に中国に勝てない)、本当にできることが「気持ちを保ち続ける」というそれだけである。
だから絶体絶命の時にできることは「諦めない」ということしかないという言い方もできる。そして「諦めない」ということは別に勝利を約束してくれるものでもない。それでも時々、小さな神風が巻き起こって、ずっと開かなかった扉が開くことがある。そして神風はどっちに吹くかわからない。荒川静香さんの時、実力では銅メダルと言われていた荒川さんが金になったのは金銀候補の演技にミスがあったからだけれど、なぜミスをしたかといえば金を取りに行くジャンプをその王者たちがリスクを犯して飛んだからである。
つまり風がどっちに吹くかは神のみぞ知るわけであるが「諦めない」という技を繰り出すことは神風降臨の絶対条件なんである。

そんなわけで過去作が一気に2作電子書籍(Kindle)になりました!

紙の時は一気に刷る分を先に印税としてもらえたし10%でも数千部刷ってもらえていたのであの頃の感じで1冊出版できたらイーディを向こう半年ほどは救うことができる。けど電子はDL数ごとなので、この電子書籍の収益ではイーディを救うことはできないが、それでも小さく開いたこの扉の向こうに、わたしはわたしのトリプルアクセルを仕掛けにゆく。また次のひとかどアーカイヴで書くが、イーディの存続=中島桃果子のメジャー復帰がマストなんであるので「わかる人がわかれば」なんて言ってられない。より多くの人に「わかってもらえるように」改稿してゆかねばならぬ。

いざ、8月へ!!!
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(8月の間に、2024年1月〜7月についての出来事も「ひとかどアーカイヴ」したいと思っています〜)

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中島 桃果子 / Mocako  Nakajima
長く絶版になっていたわたしのデビュー作「蝶番」と2012年の渾身作「誰かJuneを知らないか」がこの度、幻冬舎から電子出版されました!わたしの文章面白いなと思ってくれた方はぜひそちらを読んでいただけたら嬉しいの極みでございます!