【ネタばれあり】ある視点からの攻殻機動隊 SAC_2045①(Nとは何だったのか)
※初記事のため、見辛い等あればご指摘いただけると幸いです
まとめ
感想を一言で言うと、私たちは既にダブルシンクを使いこなしてしまっているのではないだろうかということである。
今の人類は多かれ少なかれダブルシンクを使って生きており、それ故に生ずる他人との摩擦に対して、人々はどのように反応しているかという問題意識が本作に通底しているのではないかということである。さらに言い換えれば、現代社会が抱える病理についてある問題を提起しているように思えるのである。
Nとは何だったのか
結末に近づくにつれ、Nという言葉がしつこいほどに飛び交う。そしてNになってしまえば、何やら問題が解決するようである。Nとは何なのかフラストレーションを抱えながら見進めていくわけが、明確な回答がないままに終わってしまうのである。
多くの人にとってNとは何かが一番わからなく気になっている点なのではないだろうか。そして、うまく表現できないことに苛立ちを感じているのではないだろうか。本記事はこの感覚を共有するとともに自身の感覚を言語化することに挑戦するものである。
Nとは何かを考える上で重要だと考えられるのがダブルシンクであろう。作中ではNについて以下のような言及がされる。
ではダブルシンクとは何か。ジョージオーウェルの『1984年』ではこのように定義される。
わかるようでわからない。もしくは考えたくもなくなったのではないだろうか。もしそう感じているのならば、ダブルシンクの目的は達成されている。すなわち、ある出来事や主張を批判する能力を失っているのである。
ジョージ・オーウェルが言うダブルシンクの定義に加えて、本作で次に重要なキーワードだと思われるのが”摩擦”である。
ダブルシンクによって目の前の現実を都合よく認識することはできる。しかし、その都合の良い認識”フィクション”は必ずしも現実をすべて上手く処理できるわけではない、ダブルシンクと現実との乖離、それが”摩擦”なのではないだろうか。
”ダブルシンク” ”摩擦”とは何かについては、具体例を見た方がわかりやすいように思える。
作中に出てくるダブルシンク
1.持続可能戦争
”持続可能戦争” ”サステナぶってる”
本作の背景としてユニークであるとともに、何だか違和感のある言葉である。なぜ持続可能戦争が起きたのか。本作はこの言葉から始まる。
すなわち、ここでの”持続可能性”とはGreat4が考える理想の世界に過ぎない。そして、これはのちのエピソードで明かされるが、米帝はこの持続可能戦争をコントロールしていた1A84に対して、世界全体の利益を拡大するという命令に加えて、米帝に利益を集中せよという命令も下していたのである。
ここにダブルシンクと摩擦が存在する。Great4の、”ウィンウィン”を望みそれを希求すると同時に、自国が抜きん出ようともしているというダブルシンク。Great4同士の利害の対立に基づく摩擦。
加えて、Great4と戦争に巻き込まれた他国や市民との間にも摩擦がある。
※レイディストとは
世界同時デフォルトによって戦争が激化したことにより、Great4と市民の摩擦はより大きくなった。善良な市民は摩擦が小さい頃は、Great4に都合の良いようなダブルシンクを自身にかけて現状を正当化していたと考えられる。
例えば、持続可能戦争で特定の層だけが豊かになっているのに対して自身は貧困の渦中にあるとき、「国が豊かになる」という事実と「自分は貧しい」という事実の矛盾を受け入れるためにダブルシンクをして自分の世界を守るのである。
しかし、意識的に行うダブルシンクは不完全であり、自分が抱える矛盾に関する葛藤(摩擦)は消えない。そしてその葛藤の爆発がレイディストの行動の源泉であるのではないだろうか。
ただし、レイディストは異なるダブルシンクを無意識のうちに抱えている。それは、「自身の行っている行為が単なる略奪である」という事実と「自分たちは社会に憤慨して反旗を翻した正義の味方である」という主義の矛盾である。Great4のダブルシンクに振り回されているという意味でレイディストは「加害者を気取った被害者」なのである。
※1A84はGreat4が抱えるダブルシンクを理解できず、全世界同時デフォルトを起こしている(後に誤りであったと述べている)。なぜ全世界同時デフォルトを起こすことが解決につながると考えたのかは機会があればまた書いてみたい。
2.マルコ・アモレッティ
彼もダブルシンクを自分に強制せざるを得なかった人物であろう。日本社会を目の前にしながら受け入れられないために、自分の中でベトナム戦争を始めてしまうのである。
彼はベトナム戦争やサンセット計画が終わったことを知っていて、かつ知らないでいることを選んだのであろう。彼のダブルシンクに基づく摩擦は激しい。多くの悲劇を生み、希死観念も有していた。
3.江崎プリン(証人保護プログラム)
自分の出自を忘れると同時に、新しい身分の自分を認識し、バトーとの関係では忘れていた過去を思い出し、また直ぐに忘れる。その意味で、江崎プリンもダブルシンクを使っており、現実との摩擦に苦しんでいると言えるのではないか。
4.その他
他にも関連しそうなものは多くある「世界同時デフォルトや、はじめての銀行強盗にみられるような通貨システム」や「いじめ」「自殺」「安楽死」「ゲーテッドシティなどの社会の分断」。また、現実世界においても当てはまることや既に自分が陥っているダブルシンクがないだろうか。そして周囲との摩擦を抱えてはいないだろうか。
長くなりすぎてしまうので、これ以上は割愛する。とにかく、本作は多様な価値観の衝突という現代の社会問題と切っても切り離せないと考えるのである。
ビッグブラザーの喪失
『一九八四年』においてダブルシンクは体制を強化するために用いられている。実際、本作においても途中までNは新たな国家をなし、その体制を維持するために使われているように見える。しかし、体制強化のためのダブルシンクは既に私たちの中にありふれている。では、ポストヒューマンたちが作ったNとは何だったのだろうか。
それを考えるためには、ビッグブラザーの喪失が重要な意味を持つように思える。ビッグブラザーとは体制や権威の象徴的存在であり、ダブルシンクにより人々を自主的にビッグブラザーに服従させることが目的であった。
作中、ビッグブラザーは消失する。それでは服従すべきビッグブラザーを失った彼らは誰に服従するのであろうか。
思うに、それは自分自身なのではないだろうか。自分が理想とする世界に服従するために、自分自身にダブルシンクを課すことが出来れば、自分にとって理想的な世界を認識することで幸せになることが出来る。
普通、自分自身にダブルシンクを課すことは出来ない。なぜなら、自分自身でダブルシンクを課すせいで無意識に行うという条件を満たせないからである。miniluvは、各自が理想と思う世界に基づいたダブルシンクを実現させるための補助ツールのようなものであったのではないだろうか。
※”自由とは服従である”との関連について
私たちが住んでいる世界は多くのフィクションに支えられている。言い換えれば、私たちは特定のダブルシンクを強いられていることになるのである。Nになり、自分がどんなダブルシンクに服従するか選べるとしたら、ある意味で自由といえるのではないだろうか。
Nとは何だったのか(結論)
Nとはなにものでもない。しかし、なにものにもなり得る。
Nとはビックブラザー無き世界における、ビッグブラザーの代わりに位置するものであるが、各自が自由に設定できるという点で異なる。言い換えれば人それぞれのNがあるということになる。人々は自分が服従したい世界をNの中に作り上げ、Nはそれに基づき人々をダブルシンクさせることで現実を各自の理想のように認識させる(それが完了した人々もNと呼ばれる)。それにより、1A84はNを通じて現実世界における人々の行動を完全にコントロールすることが出来る一方、人々は自身の感情や価値観を守ることが出来る。すなわち、人類全体がNを通じてダブルシンクすることによって、摩擦が存在せず、多様な価値観がそのまま共存する理想郷が誕生するわけである。
(人によって)戦争は平和で(も)あり、服従は自由で(も)あり、無知は力で(も)ある。ある人にとっては核ミサイルが発射され、ある人にとっては回避された。そんな、一見ありえないような世界が実現するのである。
その意味でNに定義を与えようとすることはナンセンスのように思える。しかし、強いて言うのならNullがあてはまるのではないだろうか。確かプログラミングにおいてNullとは、入れ物に何も入っていないような状況を指すと聞いたことがある。各自が自由に中身を埋めることが出来るという意味でNはNullと定義出来そうである。
例えば、私たちにとってのNはNationなのかもしれない。人によってはNetに暮らすこともあるだろう。Nostarigaに生き続けるひともいるかもしれない。
※自称革命戦士がNポなのはなぜか?
プリンを東京に送ってくれた自称Nの革命戦士は、プリンに本来あるべきNではないと評され、他のNたちにNポとして扱われていたがなぜだろうか。
ダブルシンクは現実の改変を望まない。現実を改変することなく、ダブルシンクを通じて自分の認識を捻じ曲げることで、現実に存在する矛盾や葛藤を克服するのである。しかし、彼は革命を通じて自分の理想を現実にしようとしていた。そういう意味でNっぽくないのかもしれない。
まとめ(改めて)
私たちは多くのフィクション(ダブルシンク)を強いられている。そして、そのフィクションに対して様々な反応を見せる。
抵抗なく受容する人。
他人を攻撃してでも、自身の価値観(フィクション)に固執する人。
旧来のフィクションにノスタルジアを感じて陶酔する人。
フィクションの世界から取り残されたと感じる人。
フィクションに耐え切れず自己を破壊する人。
人間は自分がフィクションの中に生きていることに無自覚であって、自分のフィクションを現実そのものだと思いがちである。それ故に、摩擦が生じ自身のフィクションが脅かされるとき、異質なものを排除しようとしてしまうのだと思う。
そして最初に言及した現代の病理とは、インターネットが発達した結果、自分が心地よいと感じるフィクションにどっぷりと浸かって自分の世界に閉じこもってしまい、自分の意見を批判する能力を失い、自分と異なる意見を受け入れられなくなっていることによる社会の分断だと考えている。
これは人間である以上避けられないのかもしれない。そのため、作中にあるポストヒューマンやNになることが解決策なのかもしれない。しかし、”夜と霧”のように曖昧で不安にさせる現実世界の中において、私はあくまでロマンチストでいたいと思う。自分と他人のダブルシンクが摩擦を起こしたときに、他人のものを拒絶したり否定したりするのではなく、「自分のダブルシンクを現実に近づける」良い機会だと認識したい。
「自分のダブルシンクを現実に近づける」とは、自分のものを修正するという意味と同時に、他人と共有することで現実を改変することも意味する。
無限にも思えるその営みの先に、フィクションの必要ない素晴らしい現実が待っているのではないだろうか。そんな風に考え、行動し、苦悩し、もがき続けるロマンチストでいたいと少佐は思わせてくれたのである。
※少佐はプラグを抜いたのか
自分と他人のダブルシンクに向き合い続けることがロマンチストであるように感じている。そのため、ロマンチストである少佐は自分のダブルシンクのみに基づいてプラグを引き抜いたのではなく、Nになった人々に直接向き合っていくことを選んだのではないだろうかと思う。
少佐はダブルシンクが必要のない現実世界を作るために、ポストヒューマンとではなくダブルシンクを必要とするような現実と闘うことを選んだのではないだろうか。
しかし、メタ的に言えばこれも人によって異なった認識が許されるのである。なぜなら、私たちは既にNになっているかもしれないのである。
次回(予定)Nによって作られた世界の仕組みについて
理想郷のように語られるN。しかし、違和感が残る人もいるのではないだろうか。101号室では何が行われていたのか。その違和感を書いてみたい。
次々回(予定)9課はいつからNになっていたのか
少佐はなぜダブルシンクに負けなかったのか。ロマンチストの意味とは。トグサは離婚していたのでは。プリンを見たバトーの反応と自閉モード。「次に会う時には互いを認識できないかもね」
次々々回(予定)プラグを引っこ抜くだけで元に戻る??
最後の仕上げとは何だったのか。無自覚なシンギュラリティ。結局何が変わったの。実は何も変わっていないのではないか。
OP・ED曲について(未定)