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反出生主義への疑念 – 実践すべきかについて

0. はじめに

 反出生主義とは、子どもを産むことは非道徳的であるとする哲学的立場である。はじめに私自身は反出生主義者であることを明かしたい。その上で、本投稿において、私が抱いている反出生主義への疑念を明らかにする。自身が反出生主義者であるにもかかわらず反出生主義への疑念を投稿する理由は、純粋な知的探求心や、自分の立場に縛られずに自由な思考をしたいという思い、また自己の思想も含めて批判的な態度で臨むべきという自戒の念からきている。

 本投稿においては、「反出生主義は実践すべきなのか」について、反出生主義の一分類でもあるネガティブ功利主義の観点から批判的に考察したい。長文になってしまったのでお時間が無い方は、本項「0. はじめに」と「3-0. 反出生主義は実践すべきなのか」以降のみを読んで頂いても構わない。ただ、それでも8千字程度あるが、一般的な書籍の8ページ相当の分量なので、どうかご容赦頂きたい。

 本文に入る前に反出生主義の分類を紹介したい。著書「生まれてこないほうが良かったのか? 生命の哲学へ!」の著者である森岡正博氏がTwitter上に「反出生主義とその周辺」の分類図を掲載されている。著作権があるだろうから画像は掲載できないので適宜下記URLからアクセスしてご覧頂きたい。

分類名称のみを抜粋して箇条書きにすると、以下の通りである。
 A1ベネター型(誕生害悪論)
 A2ネガティブ功利主義型
  (=消極的功利主義、負の功利主義)(ヴ→ブに変更)
 A3-1ロシアンルーレット型(出生のギャンブル性)
 A3-2同意不在型
 A4チャイルドフリー①
 B1自己否定子ども期待主義
 C1反出産主義
 C2チャイルドフリー②
 D1反-出生奨励主義
上記分類名称を都度、文中にて使用する。

1. 非道徳的行為はしないべき?

 「反出生主義とは、子どもを産むことは非道徳的であるとする哲学的立場である。」と冒頭紹介したが、実のところ反出生主義に対する明確な定義や定義上の主張はない。私が最も説得力があると感じた反出生主義の主張の一つは、「幸福になれるか否かが出生以前においては分かりようがなく、その(幸)不幸のリスクを他人(子ども)に同意なく押し付けるのは非道徳的だから子どもを産まないべきだ」(主張A)である。森岡氏の分類図を用いると、A3-1ロシアンルーレット型A3-2同意不在型に該当すると思われる。今まで反出生主義に関する著書をいくつか読んできたが、このA3-1ロシアンルーレット型に関する反出生主義者の言及を見たことはあるが議論は見た記憶がない。また、A3-2同意不在型については森岡氏の同著p295に議論があるが、確定的な答えが用意されていないのが現状という説明だった。

 私は哲学科の教授でもなければ卒業生ですらないので(経営学部卒、経理マンです)素人の私見になってしまうが、上記主張Aの前半部分を崩すことはほとんど不可能ではないかと思っている。「幸福になれるか否かが出生以前においては分かりようがない」という命題は真としか言いようがないし、「その(幸)不幸のリスクを他人(子ども)に同意なく押し付けるのは非道徳的だ」という命題も、出生=存在を開始させるという特殊性を加味しても恐らく真であると思う。しかし、最後の「だから子どもを産まないべきだ」が実は弱点ではないかと思ったのでこの度の投稿に至った。

 「非道徳的だ」が真なら「産まないべき」も当然、真になるのではないかと思う読者の方も多いだろう。私も反出生主義について調べる以前はそう思っていた。しかし、ヴィーガンに例えて話すと、私はヴィーガンの「人間が動物を搾取することなく生きるべき」という主張はあるべき姿として正しいと思っているし、とりわけ畜産業の家畜が一生を畜舎の中で過ごし、最期には必ず屠殺されるという運命は残酷で、不憫に思うし、非道徳的だとも思う。しかし、現に私はヴィーガンとしての生活はしていない。魚派ではあるが、肉も好きでステーキや焼鳥も食べる。ヴィーガンは魚はおろか卵や牛乳も食べない主張なので、正直なところ私には真似できそうにもない。

 では私は不道徳を承知でそれを実行する、非難されるべき人になるのだろうか。過激派ヴィーガンと呼ばれる人らからは非難を受けるだろうが、穏健派のヴィーガンや世間一般からは非難を受けないと思っている。ではなぜ批判を受けずに済んでいるかを考えるに、一つには他人にはヴィーガンを押し付けない、という考え方が根底にあるだろう。そして、もう一つにはそもそもヴィーガンを実践するのが難しいという点である。個人差はあるが、我々の一生において「食」の楽しみ(快楽と呼んでも良いだろう)は相当に大きいものである。ヴィーガンを実践すると、この快楽が単に消えるのではなく、恐らく多くの人にとっては苦痛の域にまで達するのではないだろうか。家畜などは確かに可哀想ではあるが、そのために自分自身の苦痛を受忍するところまで問題意識を高められるかと聞かれれば、そのハードルは高いと言わざるを得ない。

 以上で見たように、ある行為が「非道徳的だ」が真であっても、その行為を「しないべき」にならないことは起こり得る。つまり、非道徳的なある行為があったとして、その行為をしなければ別の苦痛が発生する場合には、その行為が認められる場合もあるのだ(特認A)。ただ、そもそも論として我々が忘れてはならないのは、動物の命や彼らの生命の尊厳と人間から食の快楽を奪った時の苦痛のどちらをより重く見るべきなのかである。

2. 反出生主義を実践するとは何か

 さて、反出生主義を実践すべきか否かを議論する前に、反出生主義を実践するとは具体的にどういう意味だろうか。子どもを産まないという結果さえ実行すれば反出生主義を実践したことになるのだろうか。私は結果だけでは実践とは言えないと思う。森岡氏の分類図の概念とは恐らく異なるが、チャイルドフリーという言葉がある。

Wikipediaによると「チャイルド・フリーは、子供を持たない人生の方が豊かであり、子供を作るつもりがないと考える人々のことである。不妊手術を受けたり、子供を持ちたかったが妊娠可能年齢を過ぎてしまったため子供を諦めた女性も含む。」とある。

 このWikipediaの定義で着目すべきところは、子どもを産まないことに対する、「意志」と「能力」が混在していることである。前者の「子供を持たない人生の方が豊かであり、子供を作るつもりがないと考える人々」は子どもを産む意志が無いのであり、後者の「不妊手術を受けたり、子供を持ちたかったが妊娠可能年齢を過ぎてしまったため子供を諦めた女性」は子どもを産む能力が無かったと言える。

 チャイルドフリーに限ったことではなく、子どもを産むことに対する「意志」「能力」が反出生主義を実践する前提条件になっていると私は考える。(ちなみに、反出生主義を実践するにあたって、意志は必須だと思うが、能力は必須条件ではない。)まず「意志」について述べると、そもそも子どもを欲しがっていない人が反出生主義者を標榜することに私は違和感を覚えている。私の勝手な解釈だが、反出生主義の基調には「子どもを大切にしたい」「不幸にしたくない」「守りたい」といったような子どもに対する愛がなければならないのではないか。その「子どもへの愛情」もしくは「慈悲の気持ち」を欠いた反出生主義はもはや反出生主義と呼べないと思う。ここでいう「意志」とは、子どもを実際に産むという意思ではなく、子どもがほしいという欲求としての意志のことである。

 次に、「能力」について述べると、Wikipediaのチャイルドフリーに関する定義だと女性の身体面にだけ言及しているが、私が考える反出生主義の前提条件に関する「能力」はその範囲が広く、次の3つである。1. 配偶者を得られるだけの魅力(内面および外見)、2. 子どもを妊娠・出産できる健康な体(男性も含む)、3. 子どもを養えるだけの経済力の3つである。私はこの3つの能力を反出生主義を実践する前提条件としながらも、必須条件とはしなかった。その理由は、子どもを本当に産むつもりだった人が、上記3つの能力のいずれか、またはすべての不足があったから結果的に子どもを産めなかっただけならそれは反出生主義の実践とは呼べない。しかし、能力に不足がありそもそも子どもを産めない人であっても、「子どもを不幸にしたくない」などの思いから反出生主義に共感し、たとえ能力の充足があったとしても、子どもを本当には産むつもりが無い意識で子どもを産まなかったのであれば反出生主義を実践したと言えるからである。

 ここまで「意志」と「能力」のいずれかが無い場合を見てきたが、最後に両者が揃っているケースを考えよう。子どもがほしいという欲求としての意志があり、かつ子どもを産もうと思えば産める状況としての能力を持つ人が、「子どもを不幸にしたくない」などの思いから子どもを産まなかった場合、これは疑いようもなく反出生主義を実践したと言える(実践A)

3-0. 反出生主義は実践すべきなのか

 本項以降、反出生主義の実践を語る際には特段の断りがない限り(実践A)のことを指している。
 さて、実践Aの内容を再見すると、『子どもがほしいという欲求としての意志があり、かつ子どもを産もうと思えば産める状況としての能力を持つ人が、「子どもを不幸にしたくない」などの思いから子どもを産まなかった場合』である。しかし、これは想像に難くないことだが、実践Aを実行する人または夫婦は相当な精神的苦痛を被るのではないだろうか。子どもがほしいと一言で言っても多種多様で個人間での温度差もあるだろうが、もし子どもがいたら味わえたであろう楽しい経験、その風景の一つひとつを想起するに反出生主義の実践とは大変な苦行ではなかろうか。まさに、ヴィーガンを実践するのと同じように。(特認Aを参照のこと)

 ここにきて要点がいくつか見えてくる。1つ目に、反出生主義を実践する親の苦痛と子どもが人生で味わうだろう苦痛の大きさの比較である。2つ目に、親の苦痛を避けるために子どもに苦痛のリスクを背負わせることが許されるのかという論点である。3つ目に、反出生主義を実践しなかった場合における、将来世代にわたる影響の正味量算出に関する考察を述べたい。

3-1. 親子の苦痛の比較

 1つ目の、反出生主義を実践する親の苦痛と子どもが人生で味わうだろう苦痛の大きさを比較したい。この比較は大変重要なポイントではあるが、肝心な算定方法とその客観的な根拠を示すことが極めて難しい。これから推定作業を行うが、納得しない人にとっては納得できない推定であることを始めに断っておきたい。

 まず、親の苦痛についてだが、反出生主義者が反出生主義を実践してどれほどの苦痛を受けているのか、または後悔しているのかというアンケートは私の知る限り聞いたことがないので、統計的な根拠は残念ながら示せない。また、子どもを産んで後悔したかに関するアンケートは見つけられたが、子どもを産まなくて後悔したかに関するアンケートは見つけられなかったので、こちらも参考資料としては示せない。一方、本論点と直接的な関係がある調査ではないが、国立社会保障・人口問題研究所の「第14回出生動向基本調査(夫婦調査)」によると、子供0人が理想の夫婦の割合(2010年)は僅かに3%しかいない。つまり、これは結婚している人のみを対象にした調査だが、少なくとも子どもを産める前提条件の一つである「配偶者を得られるだけの魅力」がある人に限ると、大多数の人は子どもを望んでおりそこから類推するに子どもを産まない/産めないことに対して彼らは苦痛を感じるだろうというが分かる。

 主観的な話になるが、真に「子どもがほしいという欲求」があるなら、それ相応の残念さ、虚しさを感じるのが当然だと思っている。幼少期の子育て、一緒に卓を囲んだ夕飯、休日の遠出、子どもとの趣味活動(スポーツ・ゲーム・映画など)、成人後に酒を酌み交わしながらの語り合い、孫の顔、自分の臨終を看取ってくれる…といったように子どもと過ごす時間の場面々々を考えると、これらすべてを経験できないのを物悲しく感じる人は多くいるだろう。また、現状、世間において反出生主義者は圧倒的に少なく、かつ反出生主義者以外の子どもを望まない人たちも少数派であるため、反出生主義者であること自体が結婚において大きなハンディキャップになるだろう。つまり、反出生主義者であることによって、結婚の幸せまでも放棄する羽目になる人も現れるということである。言うまでもなく、ベネター氏のように結婚できる方もいるだろうが、反出生主義が婚活において不利に働くことは確実だし、反出生主義者でなければ結婚できていたであろう人もいることに疑いの余地はない。

 次に、子どもの苦痛についてだが、ベネター氏は著書「生まれてこない方が良かった: 存在してしまうことの害悪」の第3章「存在してしまうことがどれほど悪いのか」において、我々各自の人生に対する自己評価がいかに良い方向に歪められているのかを論証している。しかし、私は人生の自己評価とは主観説、すなわち「ある人生が良いか悪いかはその人生を生きている当の本人が決めることであって、本人が良いと思ったらそれは実際に良いし、悪いと思ったら実際に悪い」という考え方を支持している。「自分の人生は幸せだった」と自己評価している人に対して、「実は人生とはこうも悲惨なもので、あなたも含めて皆、大して幸せではない」なんて話をするのはお節介だし、そもそも現代人の感覚からしても説得力が乏しいだろう。したがって、私は子どもの苦痛を考えるにあたって主観説の立場から検討したい。(つまり、主観説においては、子どもが「自分の人生は幸せだった」と生涯に渡って概ね思えれば、あくまで結果論だが、産んだことは良いことだったと言える。逆もまた然り。)

 「フェリシモ モノコトづくりラボ」の調査(2020年)によると、「あなたは今、幸せですか」という質問に74%の人が、かなりしあわせ、またはまあまあしあわせと回答している。また、日本財団の自殺意識調査(2016年)によると、「これまでの人生のなかで、本気で自殺したいと考えたことのある人(自殺念慮)」の割合は25.4%だった。裏を返せば、ただの一度も人生において本気で自殺したいと思ったことのない人が74.6%もいることになる。(個人的には大変意外に高いと思った。)両調査において、幸せか否か、自殺したいと考えたことがあるか否かの数値が近似しており、かつ今後の計算の便宜も兼ねて、幸せ:不幸=3:1(≒自殺念慮経験なし:自殺念慮経験あり)としたい。

 さて、反出生主義の実践によって子どもを産めない(産まないとも言えるが思想的要因によって産みたいのに産めないの意)親の苦痛と自殺を考えるほどの子どもの苦痛のどちらが大きいかと聞かれると、一見するに後者が大きいようにも思われるが、これは慎重な検討が必要だろう。なぜなら、子どもを産めない苦痛は、出産適齢期から寿命までの40-70年程度の長きにわたって継続するのであり、人によっては自殺したいと思いかねない域にまで達すると想定されるからである。苦痛の大きさを数値化するのは大変難しいが、親の苦痛:子どもの苦痛=1:1と考えることも十分許容範囲と思うので以後1:1で考えたい。(当然、この結論に納得しない人もいるだろう。納得できない人は、1:4で考えてもらっても構わない。)

 さて、子どもを産めないことに苦痛を感じない人はこの度の比較の対象から外れるので、反出生主義を実践することによって苦痛を感じる人だけが母数となる。(「2. 反出生主義を実践するとは何か」で述べたが、反出生主義の前提には子どもに対する慈悲心が必須であり、であるなら「子どもがほしい」という欲求は多かれ少なかれ持っているはずであり、したがって、反出生主義の実践によって反出生主義者は必ず苦痛を感じていると結論している。)反出生主義者が反出生主義を実践することが前提になっているため、親が子どもを産めないことによって苦痛を感じる可能性は100%である。一方、親が反出生主義を実践しなかった場合に、子どもが子ども自身の人生を不幸に思って苦痛を感じる可能性は25%である。苦痛の大きさの前提を1:1としているため、期待値で考えるに、親の苦痛:子供の苦痛=1:0.25(=4:1)である。さらに言うと、先ほどから言っている親とは親個人のことだが、子どもを産むためには男女が必要なので親の人数は2名である。したがって、子どもが一人と仮定すると、その苦痛の期待値は、親の苦痛:子供の苦痛=2:0.25(=8:1)となる。
 まとめると、反出生主義を実践するか否かを判断する場面における親子の苦痛の期待値比は、子どもが一人の場合に、親の苦痛:子供の苦痛=2:0.25、または子どもが二人の場合に、親の苦痛:子供の苦痛=2:0.5になり、いずれも親の苦痛の方が大きい。結論すると、幸福の増進よりも、苦痛を最小化することに優先度があると考えるネガティブ功利主義の原則に基づくなら、苦痛が小さい方の「反出生主義を実践せずに子どもを産む」選択肢の方が良いということになる。

3-2. 親から子への苦痛リスク転嫁

 前項において、親子の苦痛の期待値は親の方が大きいことを確認した。本項においては、2つ目の、親の苦痛を避けるために子どもに苦痛のリスクを背負わせることが許されるのかについて考察したい。ネガティブ功利主義は、社会全体の不幸を最小化すべきという、主に社会政策の立案時点を念頭に置いた思想であるため、社会全体を自他に分けず一括にしている。つまり、自分(親)が他人(子ども)に苦痛やそのリスクを押し付けることに対しては考慮外なのである。たとえ全体の苦痛が期待値の上で減るとはいえ、自分の苦痛やそのリスクを他人に背負わせることが道徳的だとは直感的に思えない(原則A)。こうした道徳の原則に何か名前がついているのか私は知らないが、仮にこの原則を原則Aとしてこの道徳原則の例外を以下の比喩を基に考えてみたい。

 例えば、自分と誰かの2人が海で溺れていて死のリスクもある状況下で、目の前に救命ボートがあり、その救命ボートには一人の他人が乗っているが、何らかの事情(ボートの故障、荒波など)があって自分と誰かの2人がボートにしがみつくとボートが転覆するリスクがあり、もし転覆したらその他人は泳げないので100%死亡するというリスクがある状況を想像してほしい。さて、『自分と誰かの2人がボートにしがみつくとボートが転覆するリスク』は、前項の「子どもが不幸になるリスク(25%)」に対応する。(ちなみに、『自分と誰かの2人』とは「自分と自分の配偶者」であり、『ボートに乗っている他人』とは「自分と自分の配偶者との間の子ども」である。また、『もし転覆したらその他人が100%死亡するというリスク』とは「もし子どもが子ども自身の人生を概ね生涯に渡って不幸だと思って苦痛を感じたなら、それは取り返しのつかないような悪いリスク」という意味である。念のため、『他人』の同意可能性を排除しておこう。何らかの事情(『他人』が気絶している、言葉が通じないなど)があり、ボートにしがみついても良いか否かの同意/不同意はボートに乗っている他人からは得られないものとする。これは、出生において子どもの同意を得られないことに相当する。あくまで例え話なので完全には対応しないだろうが、読者の皆様も適宜補足して考えて頂きたい。)

 果たして、ボートが転覆するリスクが何%だったらしがみつくことは道徳的に認められるだろうか。溺れている2人から見て、ボートが転覆した状態が、ボートにしがみつかなかった状態と同一であると仮定すると、ボートが転覆するリスクが100%ならしがみつくことは道徳的にも社会通念上も許されないだろう。では99%なら許されるのだろうかと考えるに許されにくいと思うし、たった1%(1億分の1でもいい)でも許されないかと考えるとそれは許されるような気がする。0%ならまったく問題なく許されると考えて良いだろう。

 これは哲学の世界の良いところでもあり、同時に悪いところでもあると思っているが、哲学は何らかの事象の善/悪や良/悪の白黒を必ずつけようとしていると私は感じている。しかし、現実社会は異なる。現実の社会はあらゆる面でグレーであり、人生が幸福か否かの主観に関して言うとそれは白:黒=3:1である。例えに戻って、転覆可能性が25%ならどうだろうか。高いとも言えそうだし、2人の人間が溺れ苦しんでいる状態から75%の確率で助かるなら25%は十分に低いとも言えるかもしれない。この25%を高いと見るか、低いと見るかは人それぞれなのではないかと思う。あくまで例え話なので、完璧な答えにはならないが、私が溺れ苦しんでいる立場だとして転覆の可能性が25%ならしがみつくと思う。結論すると、人それぞれであり、かつ自己申告制にはなるが、子どもが不幸になるリスクの度合いと照らし合わせて、子どもを産まなかった場合の自分が感じる苦痛が十分に大きいと思う人は子どもを産んでも良いと考える。

 私がしがみついた結果、転覆しようが転覆しなかろうが、反出生主義に忠実な主義者であれば「他人の人生でギャンブルをした」という意味で私を批判するだろう。しかし、ここで指摘しておきたいのは、では私がしがみつかなかったとして、すなわち子どもを産むことを我慢したとして、その我慢の苦痛を反出生主義も反出生主義者たちも何ら手当てしてくれないということである。これは「手当てしろ」とか「何か見返りをよこせ」と言いたいのではなくて、単に事実として「手当てがない」という点を指摘したい。これは現状、反出生主義者が極端に少数派で既得権益の側にも立っていないだろうということからのみ指摘しているのではない。万に一つの可能性で反出生主義が政界や経済界などで中心的な地位を占めたとしても、反出生主義を実践していけば経済規模の縮小は避けられないので、反出生主義の実践者に対して何か手当てをしてあげられるような余裕はその世界線にはないだろうということも含意している。

3-3. 実践しない場合の将来世代への影響

 3-1と3-2において、苦痛の期待値は反出生主義を実践しない方が全体として小さいこと、また自分の苦痛を他人に苦痛のリスクという形で負わせることが認められる場合を考えてきた。3つ目に、反出生主義を実践しなかった場合における、将来世代にわたる影響の正味量算出に関する考察を述べたい。

 3-1. 親子の苦痛の比較において、期待値で考えると子どもよりも親の苦痛の方が大きいと論じたが、これは短期的な(とは言っても40-70年だが)視点である。つまり、私を含めて自身の子孫が子どもを一人ずつ産んでいったとしても、千年経てば約40世代、すなわち40人の子孫がいることになる。3-1. 親子の苦痛の比較において、親の苦痛:子供の苦痛=2:0.25(=8:1)と述べたが、親は相変わらず2人しかいないのに対して子孫は40人なので、親の苦痛:子供の苦痛=2:10(=1:5)になってしまう。であれば、「やはり子どもを産まないことが全体としての苦痛を下げることになるのだから、反出生主義は実践すべきだ」という主張が提起されるだろう。しかし、私はその主張を以下において退けたい。

 まず、現状そして恐らく今後も反出生主義者は圧倒的少数派という点である。何が言いたいかというと、反出生主義者が反出生主義を実践してもしなくても全体の総人口に与える影響は極めて軽微ということである。そして、特定の誰か(この文脈では、自分の子孫)という意味で考えるとたしかに自分が行った出生によって40人の人間が産まれてきていると言えるが、まず自分が子どもを産むためには配偶者が必要だし、孫が生まれるためにも同様に自分の子どもに配偶者が必要である。すなわち、その配偶者たちは私や私の子どもがいなければ他の誰かと結婚して子どもを産んでいたであろうということは想像に難くなく、結果的に圧倒的少数派である反出生主義者が反出生主義を実践してもしなくても、特定の誰かの数ではなく、全体としての誰かの数はあまり変わらないのではないだろうか、ということである。補足すると、既に存在している私が結婚して子どもを産まないという選択をすれば、私と配偶者の分の子どもが産まれてこないのでまだ有意義だが、私の子どもや孫と結婚するはずだった配偶者たちは(その子どもや孫が決して存在しないが故に)他の人と結婚して子どもを産むので長期的・全体的に考えるとあまり意味がない。

 遺伝学の視点から考えると、反出生主義を実践しなかった場合における、将来世代にわたる影響の正味量が分かりやすい。私を含めて自身の子孫が子どもを一人ずつ産んでいった場合を考えると、まず私自身の子どもに私が与えた遺伝的要因は0.5である。次に、孫に対しては0.25であり、ひ孫は0.125と続く。これを無限に足していくと1に収束する。つまり、千年経つとあたかも40人の子孫が私の出生の決断によって産まれたかのように錯覚するが、自分が子どもを一人産んだことによる正味の影響は理屈の上では何億年経とうと1人にしかならない。「子孫が子どもを一人ずつよりも多く産む可能性が考慮されていない」という批判がありえるだろう。しかし、今の日本の合計特殊出生率(2019年)は1.36しかないのだから、自分の子孫が子どもを一人ずつ産んでいくという前提はそれほど的外れなものではない。将来子孫の出生数がどうしても心配な人は、子孫代々に本投稿の理屈が伝わるようにして子どもの人数を一人にするように説得を試みても良いだろう。その説得を受け入れるか否かは子孫各人に委ねられるが、受け入れられなかったのなら出生数に関する責は既に自分ではなく子孫の側に移っている。

4. あとがき

 私自身が理屈っぽい性格なので本投稿も理詰めの内容になっているが、響かない人には響かないと思うので他の観点をここで紹介したい。それは、「いかなる思想であれ宗教であれ、その主義者や信奉者自身が幸せになれない考え方を信じる意義またはその正しさとは果たしてどの程度のものだろうか」ということである。「人生の目的とは幸福になることである」という考え方は古今東西のあらゆる哲学者・思想家が言ってきたことだし、現代の一般市民の感覚にも符合するだろう。であるなら「人生の目的」という観点でみたときに、反出生主義は反出生主義者自身を幸福にできないという点で間違っている、または少なくとも欠陥があると言えるのではなかろうか。

 私が反出生主義を知って1年が過ぎその間いくつかの著書やインターネットの投稿を読んできた。しかし、未だ存在しない子どもや決して存在しない子どもの苦痛に関する議論は当然のことながらあったが、その親や親になり得た人物の苦痛に関する議論は私が知る限りなかった。そういう意味では本投稿はオリジナリティがある主張と言えるかもしれないが、裏を返せば哲学を体系的に学んだことがない素人である私が思い付いたことなので、間違っている可能性も多分にあると思う。私自身の自己認識は、「今はまだ反出生主義者である」だが、本投稿の考え方が覆らないのであれば、反出生主義の実践者にはなれないかもしれない。私の周りには反出生主義者がおらず、反出生主義者ではない人に本投稿の話をしても、(悪い意味で)肯定されるだけになってしまう。そのため、願わくは本投稿への反論またはご意見を、特に反出生主義者の方々にお願いしたい。

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