毒人参を探した時期もありました
とても大切な人が地上からいなくなってしまった。11月のことである。私はドラムを習い始めた。いつか人生は終わることに気付いたため。
あまりに心がつらいのでこのまま眠って起きなきゃいいのにと思うが意外と毎朝起きる。アルコールは身体に悪いので過剰摂取していればある日突然心臓止まるのでは?と思い連日誰かと夜遅くまで飲み歩いてみても全然心拍は続くし、毎晩の記憶と財布の中身を減らすのみならず翌日の仕事効率・元気・ビューティーは▲80%、そしてその行為が自分の胸にポカ-と空いた穴を埋めようとする深層心理ゆえの激ダサ行為であることをなんとなーく悟ってしまったので、こんなむなしいことはもうしません。虚(ホロウ)になるな。どうせなるなら破面(アランカル)であれ。
あの人自身の苦しさ、先にここを去ると決めたそのきもちみたいなものには充分過ぎるほど思い馳せ、馳せ、馳せすぎてもうモンゴルにいるのでここでは割愛します(普通に重たすぎるし)が…だがさ…この世にいないその人ともう一緒にいることはできず(※なぜならこの世にいないので)、私の人生で達成されなかったかがやかしい、良い匂いのする、万能であたたかな未来、、みたいなものが、虚像だと分かっていてもどうしようもなくきらめいて見えてさ…そこに立てなかった自分はホント無価値・無能・落伍すぎると私が私をなじるのです…。いやでもさぁ〜わたしだって大変に悲しいんですけど!!?と開き直ると、今度はなんとまぁこの世界にやるせなさの矛先を向け始める。なんだこのクソゲー、あらゆる悲しい出来事なんて生きる上でいらんやろ。失うことやすれ違いでしか得られない生の奥深さ、心の底に横たわる陰鬱のかげろうの美しさを眺めようじゃないか…みたいなものはしょうじき言ってハッピーへの負け惜しみでしょうが。なあ、誰もが救われるべきじゃないの?みんなが手を取り結ぼれて笑い合うみたいなんが誰しものゴールにあるべきだろ。抱く気持ちに正負の電子を帯びさせることはしたくないが、そんな憂鬱な気持ちは例外なく身体という正直なスクリーンに反映されて、ここのところ休日はドラム叩きに行く以外ほぼ寝込んでいた。
12月の頭に、以前よく聴いていたバンドのライブに行った。なんかもう運命的な示し合わせとしか思えないタイミングでたまたま開催を知り、すんなりチケットが取れ、しかもワンマンツアーファイナル渋谷クアトロだった。高校生ぶりに行ったで〜クアトロ。フロアの柱邪魔すぎ…。
ライブハウスも久しぶりだし、なんならそのバンドを生で観るのは初めてだった。わたしがふと目を(耳を?)離していた間にリリースされたであろう全然知らない曲もたくさん歌ったし、鼓膜に穴が開くほど聴いた大好きな曲もたくさん歌った。楽しくなってきて、夢中で、気づいたら他のお客さんと一緒に音の渦の中に飛び込んでいたね。爆音のギターリフに、バスドラに、胸を締めつけるような素敵な歌声にからだ全部がすり潰されるきもちよさよ。しかもよくわからんがお客さんみんないい匂いした。なんかかわいい女の子だらけだった。
「初恋の女の子を除霊する」
ライブの終盤突然始まった恒例らしい儀式に、わたしはかなり度肝をぬかれた。幼馴染のあの子が忘れられない。数年前Facebookで探したらステータスが「交際中」になっていたあの子。きっとあの逞しい身体をした彼とあたたかい家庭を築いているであろうあの子。でもそれぞれの人生は進んでいくわけで、、と、ボーカルは天高く拳を突き上げて初恋のあの子を「除霊」し、そして観客にもそれを強いた。無我夢中でステージに向って右腕を捧げながら、酸素の少ないフロアでわたしは考えた。うわあ~、まだこの人は大好きだった人を引きずっているんだ。その存在を忘れられないでいるんだ。もう交わらない(であろう)相手を、人生をおもっているんだ。どんな疼痛がそこにあるか、どんな切実がそこにあるか、いや待ってねもちろん誰もが誰かを理解することなんて土台無理な話なんですがね、それは前提として。前提としても、その感覚は今私が持ってるものにとても近いんじゃないかと思ったわけです。
いつかの縁日ですくってきたスーパーボールを噛みたくなる。曇りの日が好きになる。心臓がより身体の奥へ潜ろうとする。遠くまで散歩したくなる。誰とも連絡がとれなくなる。ひとりだなあと思う。
人はどれだけ時間が経っても大事な人を忘れられないっぽいという事実はあまりに絶望すぎたが、その痛みを抱えたままでも、いやむしろそのほうが誰かの心を動かすことは、できるっぽい。十字架過ぎるだろ…とは思いましたが、わたしは文章をたくさん書こうと思いました。体調が終わっていても、こうして文字を書く間だけは全部忘れられた気がしましたよ。
いや普通に会いたいけどね。もう会えないけど。
めちゃくちゃEです