海洋に沈む陽、流れ去るゴーグル
親が苦心してあちこち連れて行った割には、子どもの頃の思い出なんて微かなものだ。遊園地や観光地、駄々をこねて得るのに成功したおもちゃやおやつ、へとへとな労力ははるか彼方に。子が大きくなり遠い記憶の思い出に残るのは、虫がいたとか、池に落ちたとか、そういうもの。
そういうものなのだ。私の頭の中から掘り起こす昔の記憶は。
それもどんどん色あせて、かすれて、残存する思い出を保護する様にフィルターをかけるからちょこっとフィクションが入る。
頭の中から、夏の記憶を引っ張り上げてみる。海、海、海
海水浴に行ったな、アイスを買ってもらったな、どこかで何かをなくしたな
その中で鮮明に覚えている、夕焼けの海と無くなったゴーグルだ。
ディーゼルの赤いセレナ、おにぎりいっぱいのお弁当と氷がいっぱい入った水筒がガランガランと音を立てる。爆音の浜田省吾の音楽にノリノリの父、喧嘩している弟二人(私も混ざっていたかも)、笑顔(今思えばあれはやつれていたな…)の母。
夏になると毎年どこかへ繰り出した。5人家族の車内のこの光景がいつだって思い出のベーシックな扉絵だ。
小学生の頃の話。
恐らく夏休みに入ってすぐ、家族で岡山から鳥取の海に海水浴へと繰り出していた。快晴の夏の日、中国自動車道を走るセレナ。父は運転席の窓から右の掌を風に受け(80km/hでおっぱいの感覚になるっていうアレ)ていた。なぜかしっかり覚えている。
風力発電の風車が並ぶ広い道を快走。たどり着いた砂浜に並ぶパラソル、立ち込める蜃気楼、買ってもらったばかりのキューティーハニーF(フラッシュ)の浮き輪と、シャチのフロート。
そして真っ黒のレンズにピンク色のボディのゴーグル。当時の私のいちばんのお気に入りだったのがきっとこのゴーグルだったのだろう。使った期間は短いのに、二十余年経った今も鮮明に覚えているからだ。
灼熱の海水浴場の記憶はここで一旦途切れる。
何らかの原因でそのお気に入りのゴーグルが無くなった。おそらく、海に入って流されたのだろう。足のつかない場所に浮き輪で浮いていた。母が隣にいた。探しても探しても見つからない、私のピンクのゴーグル。
陽が沈みかけていた。
夏の夕暮れということだから、ほぼ夜の時間帯だったろう。私は号泣して夕陽が沈む日本海に叫んでいた(何を叫んでいたかは、覚えていない)
子どもだからいろんなものを無くしたり、落としたりしていたが、ここまでしっかりと「亡失の記憶」として残っているのはやっぱりこのゴーグルの件だ。
また買ってあげるから、と言われても、"あのピンクのゴーグル"を-自分が一番好きだったものを-失くしたことが本当にショッキングだったんだと思う。
海の楽しい記憶は沢山あっても、記憶の検索でトップに出てくるのはこれだ。結局、こういった心理に衝撃を受けた記憶が強く、それが積み重なって人間はできていくものなんだろう。
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