フランツ・ボアズ『プリミティヴアート』

芸術は、社会の余剰ではない。余裕のある一部の人の手慰みではない。芸術は、むしろ人類という種の根源的な過剰性に根ざしている。いわば人類が人類であるのは、芸術に惹かれることによってなのである。
この芸術人類学の古典的著作で主張されるのは、何よりもまずそうした観点だ。だから、芸術は社会的にどんな機能を持つのか、という問いに対して、ボアズはそれについての学説を紹介しつつ、じつのところあまり興味を持っていないように感じられる。
芸術は何かの役に立つために生み出されるのではない。逆である。むしろ、芸術を生み出すという無償性ー過剰性によって、人類という種に特有の集団性、社会、制度というものが、象られていくのである。社会という「実用」が先にあるのではなく、芸術という「無償性」が先にある。
ボアズ、「もっとも貧しい部族ですら、自らに美的な悦びをもたらすものを生み出してきたし、豊かな自然や多くの発明によって生活の心配から解き放たれた人々は、美術品の創造に多大な精力を捧げてきた」と書く。
芸術(ここでは、芸術の定義は、「美的な悦び、美を楽しむという性質」と定義されている)は、人類に普遍的に見出だされる、その本質的な無償性ー過剰性の発露なのである。

だから、「人間のあらゆる活動は、その活動に美的な価値を与えるかたちを帯びうる」ー「身体やもののリズミカルな動き、目に訴えるかたち、耳を楽しませる音の連鎖や発話のかたちは芸術的な効果を生み出す。筋感覚と視覚と聴覚は芸術で使われ、私たちに美的な悦びを与える素材である」P14

それでは、感覚に美的な価値を与えているのは何なのだろうか。技術的な処理が一定の卓越性の水準に達していたり、その処理の過程が一定の典型的なかたちを生み出すほど制御されている場合、私たちはその過程を芸術と呼び、どんなに単純なかたちであっても、かたちの完成度の観点から評価するだろう。たとえば、歌ったり、踊ったり、料理したりすることはもちろん、切ったり、彫ったり、かたどったり、編んだり、織ったりといったものづくりにかかわる仕事においてさえ、卓越した技術が達成され、一定の定着したかたちが生み出される可能性がある。技術形態の完成度による評価は本質的に美的評価である。美的な判断がどこではじまるかを正確に決めることができないため、芸術的なかたちと前芸術的なかたちの間の線をどこに引くべきかを客観的にはっきりと述べることはほとんど不可能である。しかし、運動の明確な型、音調の一定の連鎖、一定の定着したかたちが発達しているところではどこにおいても、技術の卓越性が、その完成度、つまりその美をはかる基準になることはたしかだと思われる。P14-15

例えば、石器をつくるとき、手に持てるサイズの石が尖っていれば、それで十分な機能性をもたせることはできる。表面を滑らかに研磨したり、シンメトリックな形に整えたり、装飾をほどこしたりすることはすべて、必要性の観点から見れば過剰な、芸術的ー美的な衝動に促されての行動だ。
人が、ものに向き合ったとき、そこに美的なかたちの洗練を志向してしまう生き物であるということー「芸術家としての人類」であることが、人間にもたらされた特別な資質なのである。まず必要性ー機能性の要請があり、そこに余剰としての芸術性ー美的な要請があるということ”ではない”ことに注意が必要だ。
芸術的ー美的な要請とはつまり、超越性ー意味性への要請と表裏一体の情報処理のかたちであろう。人類が、芸術、美、超越、意味を「共起」させたとき、初めて「その後」定着する必要性、機能性の次元を開いたのである。

ものを作る人は、技術的な上達の過程で、より精確でより複雑なかたちを志向していった。
芸術の根源には、技術的洗練と対になったかたちへのはたらきかけがある。
ボアズは膨大なサンプルをもとに、その「かたち」の類型、特徴を論じていく。
ものを作る人の技術上の洗練と妙義の獲得によって、そこで作られる石器や土器、装飾品などは、平面や直線をはじめ、円や螺旋のように均斉のとれた曲線が普遍的に使われるようになった。これらはどれも自然界ではめったに生じないものであり、ヒトの感覚にとって、それだけ希少価値を持つ。

平坦な面は、水晶、ある種の石の断面、凪いだ水面にあらわれる。直線は植物の若枝や茎、水晶の鋭い縁に、均斉のとれた曲線はカタツムリの殻、蔓、水面上の泡、表面の滑らかな丸石にあらわれる。しかし、均斉のとれた曲線の貝殻が装身具として身につけられたり、道具として利用されたりするような場合をのぞいて、自然の中には、人間をつき動かしてこれらのきわめて抽象的なかたちを模倣させるほど、目立ったモティーフは何もない。他方で、技術的な作業には直線は絶え間なくあらわれる。直線は張られた革紐や綱に特徴的なかたちであり、槍を投げたり矢を飛ばしたりするハンターは直線の重要性を無視することはできない。(…)(きわめて精密で安定した動作を必要とする熟達した技巧をみにつけることは)ただそれだけで必然的に規則正しい線に通じるにちがいない。切るための道具を操るおぼつかない手のよろめきが除かれれば、滑らかな曲線がもたらされるだろう。土器のつくり手が自分のつくっている壺を回転させる時、その動作が完全に規則正しければ、土器は円形になるだろう。籠や線材の完全に調整された巻き上げは、均斉のとれた螺旋を生み出すだろう。P40

ものを作る人の動作の熟練が、自然界には稀にしか見出されない「滑らかさ」や「均斉」や「直線」や「規則正しさ」を生む。技術的に発展、深化するほど、「かたちへのはたらきかけ」は自在になり、その複雑さも増していく。
芸術の根源には、「制作時にあらわれる無償の遊戯性を動機とする技術的洗練」があるのである。
ボアズは、あらゆる時代のすべての人々の芸術に特徴的な「かたち」として、上記のもの以外に、シンメトリーがあるとする。
シンメトリーの配置は、ほとんどの場合、垂直軸の左右として表現されるとして、それは私たちの身体が左右相称だからではないかと考察する。
かたちへの働きかけは、自らの身体へのはたらきかけと表裏一体である。芸術の根源を見ていくとき、そこに人の身体の制御ーさらには、身体の制御を通した魂の彫琢といった問題系が現れてくる。
ともあれ、芸術行為とは、身体とかたちとの関係性を意識するところに生まれる。芸術の動機は、身体ーかたちへの純粋な好奇心のなかにある。
いわゆる装飾芸術の特徴ー表面の滑らかさや直線や均整の取れた曲線やシンメトリーやリズミカルな反復ーは、ものを作る人の身体、その技術的妙技が、媒体に転写されたものなのである。装飾芸術とは、いわばダンスの記譜のようなものであり、具象芸術や象徴芸術に先行して、そのすべてを基礎づける「芸術性」の基盤となっている。

芸術における「様式」とは、上記した「身体ー媒体」から生まれるかたちの反響のようなものと捉えればよい。
身体ー媒体のもたらす「かたち」は、絵や彫刻といった空間芸術だけでなく、物語や詩、音楽やダンスといった時間芸術にも展開されていく。
だから、芸術表現は、異なる表現媒体のあいだでのセッション、翻訳が可能となる。そこではつねに「かたち」と、「かたちの更新」が目指されている。その無償の欲望によって、芸術行為は駆動される。
プリミティヴアートにはその欲望の元型的なかたちがあらわている。

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