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スシローがポテト屋さんであるように


人と違うことってこわい。人と違う行動をとってしまったり、違う感想をもってしまったり。それに気づくと、とてもこわい。

この場合の「人」というのは、世間一般・大多数・マジョリティーのことである。これは人と違うかもしれない、と気付いたときには即座に息をひそめて気配を消し去り、わたしもマジョリティーですよー、おなじ意見ですよー、という顔をして、にこにこしながら逃げている。

けれど最近noteを書いたり読んだりするようになって、なんだかいろんな人がいて、みんなと違ってもなんだっていいじゃんって思えるようになってきた。いろんな意見があって、いろんな趣味の人がいて、いろんな言葉で自分を表現する人がいて、みんなそれぞれ素敵だし、違っててもいいんじゃんってようやくわかって楽になってきた。いろんな人がいるってことは知ってたけど、なんだかやっと腑に落ちた。

というわけで、なんかわたし世間と違うかも? と不安になって小声でぼそぼそつぶやいていたことをここで恥ずかしげもなく語ろうと思います。終始変なこと書いてるかもしれませんが、いろんな人がいるなあ、とぼんやり思いつつ読んでください。


スシローはポテトを楽しむお店である、ということ


大手回転寿司チェーン「スシロー」といえば、みんなが知るお寿司屋さんである。引越しが多くいろんな街に住んできたわたしにとって、どこに行っても国道沿いに絶対にあるスシローの看板を見ては安心感をもらってきた。いつでもどこにでも、変わらず国道沿いに在ってくれてありがとう、スシローさん。

わたしはスシローのことをポテト屋さんだと思っている。もちろんお寿司も食べるし、おみそ汁も飲むし、食後のアイスだって食べる。しかしそれらのメニューはポテトの前菜でありデザートなのであって、あくまでもメインディッシュはフライドポテト(税込150円)だと思っている。

すこし前にテレビ番組でポテト愛を熱弁する人が紹介していたことでスシローのポテトのことを知ったから、スシローのポテトがおいしいことはもう世間に周知の事実なのだと思う。わたしもテレビで見たからなんとなく、ポテトもそれなりにおいしいらしいよ~と言いながら注文して、揚げたてのポテトを食べた。

感動した……

ハンバーガーのセットであるジャンキーなポテトやほくほく系のポテトではなく、映画館のカリカリ系のポテトでもなく、ポテト専門店の本格的でハーブの香りがするポテトでもない。お芋がほくほくでもありジャンクでもあり、どこでも食べられそうでもありスシローでしか食べられない味。スシローのポテト独特のうまみ、食感、中毒性。わたしにとっての理想のポテトがそこにあった。

ポテトのおいしさを知ってしまってからは、スシローに行くと、よし今日もポテトをたくさん食べるぞ~という気持ちで自動ドアの開閉ボタンを押している。お店によって揚げ加減にすこし差があるような気もしていて(わたし調べ)、好みの揚げをしてくれるお店のこともチェックしている。そんな推し店舗に行くと、たまに最高の揚げ加減で提供してくれるときもあったりして、感動のあまり今日このポテトを揚げたのはだれなのか、その人はいつも何時頃のシフトに入っているのかを聞きに行きたくなる気持ちを押し殺して食べている(サイドメニューだし、そんな本気で揚げてないのかな。どうなのかな)

こんな長文で書くほどスシローのポテトを愛しているわたしにとって、スシローはポテト屋さんだ。そんなこと大きな声では言えないから、みんながお寿司のお皿を積み上げる横で、ひっそりとポテトの器を重ねている。


『おいしいごはんが食べられますように』を恋愛小説として読む、ということ


芥川賞受賞作でもある、高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』という小説が大好きで、なんども読んでいる。なんどもなんども一気読みしては、最後の一文に身震いしている。

「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」
心をざわつかせる、仕事+食べもの+恋愛小説。

職場でそこそこうまくやっている二谷と、皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川と、仕事ができてがんばり屋の押尾。
ままならない微妙な人間関係を「食べること」を通して描く傑作。

講談社HPより

あらすじにも恋愛小説って書かれているから恋愛小説として読んでもいいのかもしれないけれど、この本はなかなか一筋縄では感想を語れない。

おおきくまとめると職場での人間関係が書かれている。働くことへの異なる姿勢、食に対する価値観の違い、そこからくる登場人物たちの不穏な行動が淡々と書かれている。読みやすいからどんどん読み進めていくけれど、その不穏さがじわじわと背後から迫ってきて、もう目をそらすことができなくなる。

この物語をはじめて読んだとき、わたしは胸がきゅんとしてしまった。全体的な不穏な空気は感じつつも、そのなかで語られる、相手への想いの異常さ、ずっとすれ違っている相手への狂気じみた交わらないまなざし。それに終始胸をしめつけられていた。

とくに最後の一文が素晴らしくて、一度本を閉じて深く深呼吸をしないと受け止めきれないほどに胸がいっぱいになっていた。本を読んであんなにきゅんとしたことはない。

そんな感想を胸いっぱいに抱えてSNSでこの本の感想を探してみると、おなじ感想の人が見当たらなかった。わたしだけ別の本読んだんか? と疑いたくなるほど、恋愛小説として楽しんだ人の感想が見つからなかった。みんなすさまじく深掘りして考察してこの本を楽しんでいて、「きゅんとした!最高の恋愛小説だ~」という浅はかすぎる感想を持ったわたしは、もうこの本についての感想は口をつぐむことにした。わたしの読解力のなさなのだろうか。最後の一文でとてつもなくきゅんとした同士、いませんか?


自分の気持ちをちゃんと見つめる


スシローのポテト愛も『おいしいごはんが食べられますように』の恋愛小説としての感想も、こうやって文章にしてみるとすごくすっきりした。自分の気持ちを可視化して見つめるとすっきりする。自己満足で自己肯定感は上がるものだ。

人と違うかもと思っておびえて声をひそめることって、だれのために、なんのためにやってるんだろう。そんなにみんな、自分と違うからって非難しないだろうし、そもそもそんなにだれかに興味ないだろうし。

みんな違ってみんなどうだっていい、けど同じ気持ちの人を見つけたらうれしい。ってくらいの距離感で生きていけたらいい。

大多数と違っていたとしても、わたしにとってはスシローがポテト屋さんであるように、不穏な純文学を恋愛小説として読むように、わたしが大事にしたい気持ちを自分でちゃんと見つめたい、と思う。語りたくなる大好きなものへの愛情をここでこうやって書いていきたい、と思う。

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