私の輪郭2023
こんにちは森たまみです。
今回はなんとなくキリがいいなと思い、森たまみについて話していこうかと思います。
ちなみにタイトルは、六花亭のやっている自画像公募展「はたちの輪郭」を文字りました。
森たまみの誕生
私の本名は「森田政美」です。
「森たまみ」というのは創作活動をやる上で、別名にしています。
音に出してみると、「さ」が抜けただけでほとんど変わりません。
でも、一つだけ、姓と名の区切りが変わりました。
森田→森になり、政美→たまみ になりました。
だからなんだという話ですが、これが結構大きいのです。
境界線を変える
たった少し変えるだけで別人になれる。
そういうものを、変身願望というのでしょうか。
私、森田政美の中にいる「森たまみ」ではなくて、
私のエッセンスを受け継いだ、他人としての「森たまみ」。
また、私は「境界線」というのを一つの作品のテーマとして掲げており、
それが自信に及ぼす影響について、実験してみているという意図もあります。
とにかく、そういう捉え方が私の創作活動の中ではすごく大切というか、
私は普段の生活と。創作している時の自分は違うと思っています。
生きやすさのために
例えば、私にとって、正月のうま煮は祖母の味だ、と森田が思うとします。
それは、たまみのほうにも受け継がれていくんですね。
でも、たまみはそこで「森田はどうしてうま煮と祖母を紐づけるのだろう」と他人の目線で物事を語ります。
それは自分に問いかけるのとは全然違う、他人に質問されるような感覚で。
これは多重人格とかではなく、ただ単に創作は別の人間がやっている、という捉え方にするほうが単純に楽だし生きやすいっていうのはあります。
例えば、創作の思考を日常生活の中に取り込むと、かなりめんどくさい人間になります。
普段の私は別に何がどうであろうと関係ないし、知りたくないことには突っ込まない、どうでもいいんですよね。うま煮が何であろうと何でもいい。
でも創作する時にはそういうわけにはいきません。書くための理由を探り、その根源的な理由にまで深堀していかなければなりません。そして得られた根拠をもとにて、初めてやっと語れる。そう言うものだと思います。
これは何の作品を作る場合も同じだと思います。切り替えですね。
互いに影響し、補い合う
でもお互いの思考が役に立つことってあるんですよね。
私はコミュニティに入っているんですが、そこで何かイベントを企画するとして、その時の呼ばれ方って「森田政美」だから、基本的に本来の私なんですよね。
でも、その時の思考法って割とたまみを真似しているところはあります。というか、少しアート的な要素も入ってくるので、創作に強いたまみが入ってこざるを得ないんですよね。
その中では何が根っこにあるのか考えたりとか、そういうたまみの得意分野が活かされたりします。
で、たまみは、まずは私の感情を頼りに色々考えてみるんですよね。
たまみは基本的には「そういうこともあるし、こういうこともある」という割と不確定的な終わらせ方をします。何かを決定することは忍びないんですよね。
一方、森田は現実的に何かを決めていかなきゃいけないことが多いので、割と強気に考えるところがあります。頑固ですね。
だから、私にもたまみのエッセンスも少なからず入っていることはあるんですよね。
でも絶対に交わらない、個別的な存在。
それが森田政美と森たまみです。