ひろゆきの切り抜きを見て思ったこと。
最近、ひろゆきの動画をよく見ている。
切り抜き動画で「凡人が好きなスポーツのプロは食える」というようなことをひろゆきが言っていた。野球やサッカーは食えるけどペタンク(フランスでは人気のマイナースポーツらしい)は食えない、と。
これを創作に置き換えた時、凡人が好きな創作は何だろう、と思った。
漫画、アニメ、映画、ドラマ、この辺りがメジャーだろう。
次点で小説やエッセイが入りそうだが、純文学は除かれるだろう。
じゃあ、詩は?
正直、俺は詩を読んでいる人を知らない。正確に言えば、そんな人とリアルでは会ったことがない。
詩の雑誌や投稿サイトにはそれなりに人が集まっていたりもするが、それはそうだ。詩の雑誌や投稿サイトなのだから。
凡人(俺に才能があるという意味ではない)は詩なんか読まない。だから詩は食えない。
でもなんか書いちゃうんだよな。もちろん書かない時期だってあるけど、結局なんか書いちゃう。書きたいとかは思わないんだけど。
書いちゃうんだから、どうせならそれをマネタイズしたい、と思うのは自然な流れだ。みたいなことを千葉雅也が言っていた気がする。
でもどうしたって食えない。だって詩は凡人が好きじゃないから。
俺のnoteに固定してある記事が『マンガのように』という詩集なのだけど、このタイトルは漫画への憧れを込めている。内容もリーダブルというか、ほとんどの詩がすんなり英訳できるくらいの平易な感じになっている。自分と読み手(凡人)がお互いに納得できる地点を探りながら書いた、と思う。
でもダメだった。これでダメならどうしろと、という感じだった。
食える可能性がないことを頑張る、というのは大人にとっては趣味の範囲ですることだ。趣味は無理せず、あまり真剣にならず、ほどほどにやるものだ。
趣味、とすることで、野球とペタンクは同じレベルになる。基準が「食えるかどうか」ではなく「楽しめるかどうか」になるからだ。
趣味としての詩は、自分が楽しめればそれでいい。
個人的に、詩の楽しさは、読むことよりも書くことにあると思う。
これは「食えるかどうか」を基準にすると致命的な気がする。だって、極端な話、他人の詩を読む必要がないのだから。
野球は見ていて楽しい、漫画は読んでいて楽しい。つまり「凡人が受け手として楽しめるかどうか」が「食えるかどうか」を決めるのだろう。
これは詩を読むことが、凡人にとって楽しくないことを示している。俺は凡人なので、詩を読むことはそんなに好きじゃない。
であれば、俺にとって楽しい詩を書けば、俺は詩で食えるようになる。というのは早計で、「俺は凡人」とさっき書いたが、俺はたぶん凡人ではない。凡人というのは、きっと、もっと、凡人なのだ。
凡人というのは、詩に一ミリも興味がない。犬とタバコだ。凡人と詩は、犬とタバコだ。
そして詩人は、何だ。
俺は、何だ。
詩で食いたいなら、犬用のタバコを発明しなければならない。