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私の辞書を捨ててしまって。

私は確かにぼんやりした子だった。
口数は少なく、感じること、それをまとめて口に出すには時間を要したし、そうしようとすることも少なかった。

考えていないわけではなくて、心の中には
小さいなりの流儀や、美学や、こだわりがあった。

それらを理由なく傍に押しやって、ルールを押し付けられる学校は苦手だった。

先生にとって大切なことが、私にも同様に大切だなんてどうしてそんな風に思えるのだろう。
それをお願いされるならまだしも、学校は当然だという態度で要求してくる。

何もかも、言葉にして説明しなくてはならない。
その割に、こちらの要求が通ることは少なかった。学校とはそういうもの、というのは学んだが、それならあまり好きにはなれない、ということも同時に学んだ。

黙っていても、私は私なりに忙しかった。

帰り道にある草花を持って帰っては図鑑で調べたり、猫と話したり、いつか作る秘密基地には何を持ち込むか考えたり、つるつるした柔らかな草木の新芽を口に入れたりして、毎日やりたいことはたくさんあった。

それをどうやって、説明しろというのか。
私には私の大切なものがあり、学校に行きなさい、ルールを守りなさい、意見は言わないと伝わりませんよ、というようなことにただ従うのは大変不愉快だった。

聞くつもりがなくて、最初から説得にかかるつもりの人には、何を言っても無駄なのだということも学んだ。

彼らは、「私はきちんと意見を述べる機会を与えたのだ」という、証明が欲しいだけである。
それは彼らの盾なのだ。大人になっても、そういう人はたくさんいる。

私は大人になるために、たくさん、早く話す術を身につけた。頭をフル回転させ、本や漫談やテレビから、使えそうなフレーズをメモし、メモできないときは口にして、自分の辞書に加えた。

辞書からすぐ、適切なフレーズを吐き出せるようにだ。

かつての私の、幼いながらも吟味された言葉とは真逆の、

「私はきちんと受け答えしたのだ」

という証明のための言葉だ。

もうそんな辞書は捨ててしまって、あの頃に戻ればいいのだと、今は思う。

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朝焼けに栞
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