#3. 中学生時代ぶん殴られて育った僕の体罰に対する一考

昨今のテレビやSNSではさかんに

体罰

について議論されている。僕はこの議論している人をみるたびに、

「いや、君達絶対殴られて育った側の人間じゃないよね。笑」と思う。

現在21歳の僕は

"教師が生徒に手を出してもおとがめがない"

最後の世代だった。
なので、今回は実際に殴られて育った僕の考えを書いていこう。(これって以外と貴重な意見なのでは?笑)

※今回、僕の偏見maxの考え方の根底に中学生までは状況にもよるが、話されるより殴られたほうが反省する。というものがあります。
「お前の偏見なんて知らねえよ。」
という方は、ブラウザやアプリを閉じることをオススメします。



話を本題に移そう。



何を隠そう、僕は中学生という人生でもっとも多感な時期に

ぶん殴られて育った

これは紛れもない事実である。

そして僕は、体罰には反対で絶対になくしていかなければいけないものと強く思っている。。

しかし、教師、親が子供をぶん殴るのは肯定する。

僕は、先生、親父から中学生時代けっこうぶん殴られた。
当時
「こいつら殴るなよ。いてぇよ。」と思っていた。

しかし今考えると僕は体罰を受けたことがない。

僕は体罰を
「教師や親が、自分の機嫌1つで子供に手をだすこと。自分より力の弱いものを自分に服従させるための手段。」

と捉えている。
(スポーツ現場における指導者の勝利至上主義による罰走、暴力は無論体罰で無くさなければならない。)


では体罰は受けたことがない僕が、どのようなことでぶん殴られていたのか
覚えている範囲で実例を出してみよう

・他校で行われた練習試合の休憩時間に、野球拳をしてパンツと靴下だけでうろうろしていた。

・授業中に覚えたての下ネタを連呼し、授業の進行を妨害した。

・学校のベランダにでた(ルール違反)。

・学校にマンガをもっていった(ルール違反)。

今当時を振り返って思う。
「いや2秒考えたらやったら駄目って分かるやん。」

僕はこれを体罰とは思わない。
僕が悪かったからぶん殴られたのだ。
言い方をかえると、親父、先生は

僕に将来恥をかかせない。また命を守るためにぶん殴ったのだ。

(かなり言い方を美化してます。)

上から順に説明すると
・将来、他人を不快に気持ちにさせないように。

・将来、非常識な行動をとり、他人に迷惑をかけないように。

・かりにベランダから落ち命を落とさないように。

・誰かに迷惑をかけたわけではないが、将来、社会の最低限のルールを守れるように。

とまとめれる(若干美化した)。

当時の僕は「痛ぇよ。殴んなよ。」
としか思っていなかった。

しかし今は
「あの時殴られていてよかった。」
と(わりと)心から思う。

しかし、そんな話がうまくいくわけはない。


ここで必ず殴られることに関して議題にあがってくる事が3つある。

1,いや話して聞かせればよくない?

はっきりいおう。

"殴られないと反省していなかっただろう。"

いってもまだ中学生だ。正直、楽しいが最優先で頭の中から選択される。
僕はそれを殴ってわからせるのも1つだと考える。

しかし、話をして理解できる人は確かにいる。

そこで先生達に大切なのは、
・話してわかる人か、わからない人なのか

また
・これは殴ってでも分からせるべきことなのか、
話して分からせることができるものなのか

の線引きが大切だと思う。

恐らく僕の通った中学校はこの線引きが素晴らしかったのだろう。
なので、
「いや、あいつだけ殴られんやん。
俺には先生すぐ手をだすやん。」という声をあまり聞かなかった。

つくづく教員は難しい職業だと感じる。

2,手を出さない人には舐めた態度をとるようにならない?

これは正直懸念される点である。
そして教育環境が非常に大事になってくる。
僕が通った中学校は、悪さがばれると生徒指導の先生の耳に必ず入るシステムになっていた。
なので、いわゆるやさしい先生に対して舐めた態度をとる人もいなかった。

逆に殴られた経験、そういう文化がなかった学校出身者のほうが目上の人に対して舐めた態度をとるように感じる。(高校生時代実体験あり)

3,人が殴られているのを見て不快な気持ちになる人がいるよね?

これは僕が高校生の時に、お世話になった先生から言われたものだ。
僕が中学校から高校にあがるくらいで

教育委員会が体罰に厳しくなり、生徒に手をだした先生に処罰を与えるようになった。

僕は高校生の時からぶん殴るのに肯定派だったので、先生に

「なんで、先生達は僕らが変なことをしてもぶん殴らないんですか?」
となぜかドMともとられるような発言をした。


するとその先生は
「人が殴られているのを見て不快な気持ちになる人もいる。だから出来る限りは話して聞かせるようにしている。」

なるほど。心底納得した。
そういう側面もあったのか、教員(人間教育)って奥が深いなと思った。

この3つの論点に関してはとても難しい。
教育者でもない僕の考えは上のような感じだ。


次に

僕が考える悪いことをして殴られた経験がもたらすメリット

についてまとめていこう。
僕は現在大学生であり、僕と同じ年に入学したものは殴られた経験があるのは恐らく半々位、年上は殴られた経験がある者が多く、僕らより年下は殴られた経験がほとんどない者が多いだろう。
今、この3つの世代が同居する団体に所属している中で感じるものは多くある。

簡潔にいうと2つある。

1つ目は精神的に強くなり、少しのことではへこたれなくなるということだ。

僕を含め、殴られて育った人は結構この傾向にあると思う。
なにかミスをしてしまっても切り替えて、それを糧にする事ができる人が多いようにみられる。しかし、殴られた経験が人は、少しのミスしてしまうと気分が落ち込んでしまう人が多いように思う。
(これに関しては僕の偏見がmaxではいってます。)
育った環境や個人の性格によって個人差があるとは思うが、少なからず殴られた経験による差もあると僕は考える。

2つ目は、目上の人への態度だ。

いわゆる礼儀がなっていないのだ。

どんなに仲のいい先輩でも越えてはいけない一線がある。
感覚的に僕と同じ年代、またそれより下の者はそれを分かっていない人が多いような気がする。

というか、先輩に実際そういわれた。
(かなりの数言われた。)

昔と今では社会の環境が変化しているので(先輩を君づけでよぶなど)仕方ない半面、やはり上下関係が疎かになっていると僕も心底思っている。

しかし、これも目上の人に失礼なことをして殴られたという経験の有無が少なからず影響していると思う。

まとめ

僕の体罰に対する一考として、

体罰と理由があってぶん殴ることは全くをもって別物だ。

ということを強くいいたい。
理由があり、どうしても分からせたい、反省させたい事がある場合ぶん殴るのもコミュニケーションの1つだ。

僕がここでは書けないくらいやばい事をした時、

先生は涙を流しながら、
「俺もお前を殴りたくないっさ。でも悔しいけどお前が分かってないけん殴る。」
といってぶん殴られた。

僕も殴られた時涙を流した。決して痛みによって流したものではない。
心にくる熱いものがあった。
そして心底反省した。

恐らくこれを体罰という人はいないだろう。

高校生ぐらいの年齢になると多くの人が話しをして反省するだろう。

しかし、中学生ぐらいまではこのように、時に熱くぶつかることも大切なのではないだろうか?
先生たちから ”熱く” 指導されることにより思春期にぐれることなく生活できるのではないだろうか?

サッカー日本代表の長友選手はいい例である。
(中学生時代にサッカーの道からそれかけるも ”熱い” 恩師のもとで更生し、今では日本代表として活躍している。)

大事なのは

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体罰とぶん殴ることの差別化なのだ。
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最後に
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思春期にぶん殴られ ”熱く” 教育してもらうことができれば
人に対して ”篤い” 人になれるだろう。

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ちなみに僕が教員になる予定は全くない笑

では

バモ!

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