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261:実体のないような感じ

ずっと,実体のないような感じを思い求めているのだと思う.ずっとというのは,かなり前からというだが,このかなり前というは,大学生の頃からなのかもしれないし,いつからはもうはっきりとはしない.最終的に実体のないような感じが書ければいいなと思っているところがある.それは,かつて読んでいた,ボームの『全体性と内蔵秩序』をもう一度読みたいなと思っているところからも,「ずっと」考えてきたところが,回り回って,「回り回って」ということは,結局は,同じところをぐるぐると考えていたということになるのだろう.ぐるぐると同じところを,一度結論になったものが,次の序論になってという感じで考え続けている.こうやって,行きつ戻りつしながら,ずっと同じことを考えているということが実感できていた.あるようなないような,ないようなあるようなという感じもまた,実体のないような感じにたどり着くだろうし,実体と書いたときに,そこには「実体がある」とされると同時に,「ないような」と書いて,それをあやふやにして,最後に「感じ」と,私の主観的な体験で収めてしまう感じが気に入っているのかもしれない.

「実体のないような感じ」の周りをぐるぐると回っている私は,どこにも行かずに,ドーナツの穴をつくろうとしているのかもしれないなと思った.木の周りを回って,バターになるのではなく,自分が回り回って,その中心をドーナッツの穴のように,あるようなないような実体としての穴のようなものとともに,私があるということを書きたいのだと思う.そうすると,回り回るためには,どんどん書かないといけない.そうしないと,回り回れないので,穴はできない.ずっと日記のようなテキストを書き続けているが,まだまだ足りないだろう.まだ何かの周りを回りきっていないから,穴の輪郭すらも出来上がっていない.書いたものを忘れつつも,書き続けた先にできる「実体のないような感じ」が生じるような穴のような何かが現れてくるまで書かないといけない.書かれたものには現れないけれど,書くことで書くことに現れない何かを私が実感できたとすると,それが「実体のないような感じ」として現れてきているものだろうと感じるまでに,あとどのくらいの時間がかかるのだろうか.

なんでこのようなテキストを読んだのかを全く忘れている.忘却の彼方に消えてしまったテキストを改めて読んでも,なにも書こうとは思わない.忘れていた! けど,今読めてよかったというテキストと,読んでも,なにもならないねというテキストの分岐点はどこにあるのか.それは私の興味の持ちように左右されるのだろうけど,そうすると,私の興味関心の移り変わりはどうして生じているのだろうか.私自身は連続的な存在として存在しているような気がしているけれど,思った以上に,離散的な存在なのかもしれない.あれとこれ,0と1のように,スイッチを切り替えながら過ごしているけれど,肉体があるから,連続的にずっと存在しているように感じているだけなのかもしれない.

物語の終わりを迎えて,その物語について何かを書く欲求が私にはほとんどないのだろうな.物語は読んでいるときで終わり.物語を読んでいるときに,自分に現れる情景の方が重要.だから,マンガはそれがほとんど描かれてしまっているので,小説の方が読み終わったときにも,その情景が残って,やがて自分の〈視界〉になるまでの強さを持ったものがあって,それを感じるのがとても好きな気がする.自分の〈視界〉の一部となってしまうような物語の情景はそれほどないので,情景の〈視界〉化が起こると,そのことばかりを考えてしまう.

自分の記憶も,今の〈視界〉にそれほどの濃さを持って現れることは少ないのに,小説でつくられた情景は閾値を超えて濃くなっていって,私の〈視界〉に現れる.その後,徐々に薄くはなっていくが,それでも何度も何度も私の〈視界〉に現れてくる.これを書いているときには,柴崎友香の『ビリジアン』の大阪の風景がふと現れた.高速道路や土手の公園のような雰囲気,主人公が喘息で過ごした夜の風景とその団地の感じが,私の〈視界〉に現れている.そのことを書けば書くほど,小説を読んでいるときに浮かんできた情景が私の〈視界〉に現れてくる.なぜそれが現れるのか,そして,そこに現れている情景を本当に私が見ているのかということはいつも疑問に思う.見えているという実感はあるが,それは「見る」というほどには鮮明ではなく,もっと微かなものでしかない.見えていそうで,見えていないけど,見えているという感じは確かにある.

ここでも,あるようなないような,ないようなあるようなの感じで,私の〈視界〉に穴をあけて,その穴のところにその情景が見えている.透明度2%のレイヤーが〈視界〉に重ねられていると,これまで何度か書いてきたけれど,〈視界〉に穴が空いて,その穴からかつて読んだ小説や記憶の情景が見えているのかもしれない.〈視界〉に穴が空くと,〈視界〉が透明度2%になるのではと思ったが,〈視界〉自体はどこも透けていないので,この考えは瞬時に破棄された.

〈視界〉の最背面は透けない.透けてはならない.それが透けてしまうと,私に認知が損なわれる.私の認知が損なわれるということは,私の世界が損なわれてしまう.世界が透けてしまうと,私も透けているような感じなるか,私は確かにあることを意識,強く意識できはするが,世界が透けてしまうと,世界がなくなっていくように感じてしまう.世界は消えはしないけど,透けてしまうと,私もまた不安になる.だから,〈視界〉の最背面は透けてはいけないし,透けないようになっている.もし,それが透けてしまったら,私と世界との関係が断ち切れそうになっていることを示しているように,私は感じるだろう.

でも,〈視界〉に「穴」が空くというアイデアは残り続けている.透明度2%と「穴」のどちらが正しいというわけではなく,どちらも起こっているよう感じがする.しかし,「穴」の方は言葉としてはしっくりきていても,実際に〈視界〉に「穴」が空いたように見えているかというと,それはまだそのように見えないで,透明度2%のレイヤーの方がしっくりきている.やはり私の〈視界〉の背景をなしているのは私の視野を埋めている視界なのだろう.

主観的な〈視界〉の最背面にあるのは客観的な視界なのだろうか.私に見えている〈視界〉の最背面に世界そのものが「客観的」に現れているというわけではなくて,私が世界を見ている最背面にあるのがそもそも〈視界〉なのではないか.なぜなら,私は〈視界〉の背面を感じることができないからだ.それゆえに,〈視界〉の「穴」というアイデアは文字では書けても,どうもイメージが湧かないものになっている.最背面の〈視界〉にレイヤーを追加していくというイメージの方が,私が見ているもの,感じているもの,体験している世界についてはしっくりくる.〈視界〉を私に起こる世界を感じる体験の最背面におくこと.しかし,それは私にとっての最背面であって,私の肉体にとってはそれは別に最背面ではないだろう.いや,肉体にとっても最背面なのかもしれないが,それはわからない.〈視界〉を形成する手前を私は体験ではないが,私の肉体はそれを形成している.しかし,それは私が見れる対象ではないので,それは「面」ではないだろう.「面」でないから,私はそれを見られないとも言えるかもしれない.とにかく,私が見ることができる最背面にあるのが,私の〈視界〉であって,私はそこにさまざまなレイヤーを追加して,〈視界〉の様相を変化させていっているのだろうということは,少しだけ確かなことのように思える.

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