039:「Looking through(透かし見る)」のメディウム
以前,美術批評家の土屋誠一さんに作品の修復保存について,Twitterで聞かれたことがあります.そこで私が書いたことを誤字脱字を修正して抜き出したのが,以下の引用部分です.
ソフトウェアとハードウェアとが分離して考えれられて,制作されるようになって以降,作品というよりも,モノの捉え方自体がかわってきているようにも感じられるので,保存すると言ってもどこまでを保存するだという問題になっているといえます.インターネットに接続しているのが当たり前,アップデートするのが当たり前な状態のモノの範囲を決めることが,まだできてない状態にあると思います.だから,作品を保存するといっても,どこまでを保存するのか,何を保存しておけばOKなのかが手探り状態にあると考えられます.
また,ヒトの感覚もこれまで以上にある特定の期間,例えばマウスとカーソル,タッチパネル,音声入力といったインターフェイスの変化に縛られているので,作品だけが時代に合わせてアップデートしても,鑑賞する側の感覚がアップデートできていないと何がそこで問題になっているのかもわからない状態になるかもしれないなとも考えています.
ここで私は,使っている技術がアップデートし続けているネットアートやメディアアートでは,「モノ」のあり方自体が変化しており,それゆえに,作品をどこまで保存するのかが,明確にはわからなくなくなっていると書いています.これはメディアアートの保存でよく議論されていることです.同時に,アップデート可能な「モノ」に対して,鑑賞者の体験は日々更新されていくものになっています.作品で用いられたバージョンの「モノ」を保存できたとしても,鑑賞者の体験までは保存できないと考えられます.もしくは,作品をアップデートしてしまうと,鑑賞者が元の作品に感じた感覚とはズレた体験が生まれる可能性が高いと考えています.
なぜ,メディアアートではモノと体験とのあいだにズレが生まれるのかを考えてみました.すると,絵画や彫刻とは異なり,メディアアートで使われている技術は「死んでいない」と言えるのではないかと,はじめは考えました.しかし,絵画や彫刻といった伝統的なメディウムも「死んではない」からこそ,今でも作品に用いられていると言えるわけです.では,メディアアートのメディウムは絵画や彫刻とはどう違うのか.それは,メディアアートで使われるメディウムは,マクルーハンが言うところの「Looking through(透かし見る)」のメディウムで,絵画や彫刻では「Looking at(見る)」のメディウムなのではないかと言うことを考えました.メディアアートで使われるコンピュータやスマートフォンと言ったものは,ヒトがそれを「透して」世界を見るものであって,絵具や石と言ったものは「それを見る」ことが世界を見ることになっているのではないか.だから,絵画や彫刻はもともとヒトとメディウムとのあいだに距離あり,メディウムを見つめることが作品となるのに対して,メディアアートのメディウムはもともとヒトと重なり合っているものを少し引き離して,ヒトとメディウムとのあいだに距離をうまくつくれなければ,作品とならない.引き離されたヒトとメディウムの距離は,時の流れのなかでどんどん開いてしまい,作品としての許容される距離を超えてしまい「死」の状態を迎えてしまう.絵具や石はもともとヒトから「見る」ためにそこにあるので,それは「死」とは無縁な状態にあるのではないか.
[[February 19th, 2021]] 追記
Looking through(透かし見る)のメディアの「死」をもっと考えてみてもいいかもしれない.
ヒトはメディアを透かし世界を見ている合成的存在であれば,Looking through(透かし見る)
のメディアの「死」は,ヒトの「死」となるのではないだろうか.
メディアアートの保存はヒトの感覚も保存しないといけない.けれど,それは絵画・彫刻も一緒で,
その時代の感覚を保存することが求められる.でも,このときの「感覚」は少し異なる感じがある.
ヒトの感覚が「拡張」された部分が「死」を迎えたとき,そのように世界は見れない,かつてその
ようにモノが感覚されたということを誰も「回復」できない.情報を復元できないことが死となる
のではないだろうか❓
こんな感じで「メディアアートはなぜ死ねるのか?」と言うことを考えているときに,技術と人間との関係を扱った「ポスト現象学」という領域があるのを知りました.私は「ポスト現象学」をピーター=ポール フェルベークの『技術の道徳化: 事物の道徳性を理解し設計する』で知ったのですが,そこで言われているのは,現在の私たちの周りにあるコンピュータ,スマートフォンや超音波診断などの技術はハイデガーが考察対象にしていたハンマーやタイプライターといったプリミティブな道具とは異なり,もっと人間と重なり合った合成的な存在になっているということです.「ポスト現象学」で,ハンマーやタイプライターを伝統的な道具として,スマートフォンや超音波診断装置と区別して扱っていることに倣って,絵画や彫刻を伝統的なメディウムとして,異なるメディアアートをヒトと技術とが合成した状態にあるメディウムとして区別してもいいのかもしれない.そして,人間と重なり合っているダイナミックな存在になっている技術だからこそ,ハンマーやタイプライターとは異なり単に「使われない」ということ以外にも「死ぬ」という状態が生まれるのではないか.
そして,ピーター=ポール フェルベークはドン・アイビーという「ポスト現象学」の創始者の哲学者が提唱する技術の「複数安定性」を参照します.「複数安定性」というのは,技術は一つの文脈を持つのではなく,複数の文脈を持つというものです.例としては,電話はもともと補聴器として使われていたけれど,遠方の声を聞くという別の文脈になって多く使われるようになったというものです.技術は「複数安定性」を持つからこそ,人間と動的な関係を持つ存在であると言えるわけです.だとすると,メディアアートが用いる「メディア」はまさに「複数安定性」を持った技術であり,それゆえに「使われない」ではなく,「死ぬ」という状態で安定することもあると言えるのではないでしょうか.
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この辺りは,YCAMで「メディアアートの輪廻転生」展を見た直後から継続的に考えていることです.展示を体験しながら書いたテキストには以下のように書いています.
「死」を迎えるのは作品だけだろうか? メディアアートはテクノロジーを用いているけれど、現在、ヒトとテクノロジーとは密接な相互関係のなかにあるとすると、墓に入るヒトも死を迎えているのではないだろうか。いや、死を迎えているのはヒトでもなく、そこに置かれた作品でもないのかもしれない。ヒトと作品とがかつて持っていた相互関係性こそが死の状態にあるといえるのだろう。アーティストによる作品の死の宣告によって、ヒトと作品を構成するテクノロジーとの相互関係性が喪失する。そのとき、ヒトは作品を通して作品を構成していたテクノロジーとの関係を想起する。それは個人的なものかもしれないし、社会的なものかもしれない。