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263:世界認識を変えるような体験をもたらしたいと思っているのだろう.私は.

年末の大掃除の一環として,エアコンの掃除をした.椅子を置いて,その上に立って,エアコンを紫のふかふかで撫でるように触りながら,埃をとっていく.エアコンと天井のあいだにもふかふかを入れて,エアコンの天板の埃も落とそうしたら,尋常じゃない埃が出てきて,どうなっているだと思った.そこで,iPhoneのインカメラを使って,「視界拡張」と言いながら,エアコンの天板を見た.そこは「天板」ではなくて,フィルターが剥き出しであった.私はエアコンのフィルタに埃を取る掃除道具を当てていたので,出るわ出るわの埃となったわである.エアコンの構造を全くしらなったので,こうなったわけだが.したから見ている分には,私が「天板」と思ったところは天板にしか「見えなかった」.私は「天板」を見ることなく,勝手にそこを「天板」だとして,エアコンを見ていた.その「天板」は一度も見たことないのに,そこに天板があると信じ込んでいたのは,モノとして下部と側面が樹脂であったら,上部にも白い樹脂が広がっているはずだと,私が予測してしまっていたからであった.メーカーとしては,見えないところだから,フィルターを丸見えにしてしまっていいだろうし,空気の流れも確保できるという機能の面でも必要な処置だったのだろうけど,私は今日の今日まで,10年間くらいずっと,自分の家にあるエアコンを実際と異なる内的モデルを構築してみていたということになる.

さらに,「天板」に当たる部分は,フィルターなんだと今ではわかっているけれど,エアコンを見ると,そこにフィルターがあるということを意識しずらい.それは,私がまだその部分を実際に見ていない.iPhoneを使った拡張した視界で見ているが,私がその部分の全体を丸っとは見ていないので,どうしても私のなかのエアコンのモデルのアップデートができていないという感じになっている.iPhoneの区切られたフレームに表示されるエアコンはエアコンの一部でしかなくて,エアコンそのものを見ているというのは少し異なる感じがあって,フィルターをそこに見ても,それはフォルターがそこにあるということだけを見ていて,私が10年間使ってきたエアコンの一部として,そこにフィルターがあるという感じではない見ていないような気がする.「エアコンの一部」としたが,これも少し異なっていて,iPhoneのディスプレイに表示されているのが「フィルター」であって,そこに「フィルター」が表示されているのは,私の手に持たれたiPhoneが向けられている角度として,レンズがエアコンを捉えているのは確かだし,私はiPhoneを私の〈視界〉を延長するというか,〈視界〉の中に自分の視点から見られない部分を見るための視界として送り込んでいるのもを知っているのだが,どうしてか,iPhoneのレンズが捉えた対象そのものを見ていないという感じが私に残り続けている.そこには十中八九,エアコンのフィルターがある,しかし,フィルターだけしかなくて,それは,エアコンのフィルータではないかもしれない.そんな感じがしてしまう.フィルターがあるのはわかるでも,それが目の前のエアコンのものだというのもをわかるけれど,それでも,それが本当にエアコンのフィルターなのかどうか,どこかで疑ってしまっている.その結果が,今も私の〈視界〉に現れるエアコンの天板はフィルターではなく,白い樹脂でできていて,そこにうっすらと埃が溜まっているものとして,現れるのである.

授業のコメントシートにコメントした後で,『投影された宇宙』の残りをスキャンするように読んだ.以前の私が書いた私がいるところからは見えない「ストライプの庇」を見るという体験は,ホログラフィックな体験としてはあり得ることが書かれていた.私が考えたいのは,ホログラフィックな意識であり,体験なのかもしれない.それは,身体的な体験,すなわち,意識的,精神的体験とするような体験なのだと思う.そんな体験を体験し,それを記述し,世界認識を変えるような体験をもたらしたいと思っているのだろう.私は.

昨日書いたテキストを読み返しているときに,保坂和志の小説に出てきた海岸通りのお店の感じが,私の〈視界〉に現れていた.逆光で,入り口から光が入ってきている感じがあって,ストライプの庇が入り口の上にある.もちろん,私からはストライプの庇は見えないのだが,そこにそれがあるということは,逆光の光に感じられている.この感じ.見えていないものが,その光に感じられる.これを書いている今は,私の視点は入り口の奥から移動していて,ストライプの庇が見える位置に来ている.でも,最初にこの情景が見えているとき,そこには逆光とそこからは見えることがないストライプの庇が同時に感じられていたのだ.逆光は見えていて,ストライプの庇はあることを知っているので,光の先に見えなくても確かにあるという感じが,そのまま「見える」になっている.視点が移動することなく,逆光でシルエットだけが見える入り口とその上にあるストライプの庇は同時に感じられる.でも,ストライプの庇が感じられるときには,私の視点がそれが見える位置に一瞬でも移動していないとは言い切れない.やはり,それが見える位置に私の目は移動していたのではないか.一瞬,そこに移動して,ストライプの庇を見て,即,元の位置に戻ってきて,その移動自体が速すぎて意識できないということなのではないか.そんな気がしてきた.それは目でしか世界を見れないという思い込みがなせる思考なのだろう.目以外,視覚情報以外でも,世界が見えているとすれば,視点が移動する必要はない.空気の振動を通して,そこにストライプの庇があることが感じれたものが,視覚情報と私に見えているという考えもできるはずなのに,どうしても見る,視点にこだわってしまう.もっと感覚的に,この感覚的にというのは,五感それぞれではなくては,それらをもっと全体的に感じるということで,世界をまるっと,3Dモデルのように感じられるのではないか.と書いたとこで,3Dモデルのように感じるということは,視点の移動になってしまう.3Dモデルのようなカメラの移動を思い浮かんでしまうから,さっきの視点の瞬間移動を考えてしまったのだろう.視点が移動する必要はないことを前提に考える必要がある.世界は1つなのだから,ストライプの庇が見えないところにあったとしても,その世界に私も含まれているのだから,空気の振動,音,その他で見えるはずだし,見えないとしても,見えないものが反射して光もまた,私の網膜に届いているはずである.微力でも届いている光によって,私は遮蔽されたその先を感じられるし,空気の振動によっても,それを感じられる.世界をそのように感じていったときに,私はもっと自由に,自在に世界を感じられるはずなのだが,不思議なことに,自在に世界感じられると思えば思うほど,視点の移動が問題になってくる.どうしても,私は世界を見ようとしてしまう.世界は見なくても,そこにあって,見る以外の感じ方があるのに,それを感じられないでいる.このままではいけないともがけばもがくほど,視点に縛られていく.〈視界〉は私を決して離さない.私も〈視界〉を離そうとしない.これが私の前提になっている.

海岸通りのあのお店

文末の「私は.」がとても不気味に感じる.「私は.」は切断された首のようにそこに置かれている.「首」ではなくて,もっと全体的な存在でありながら,何かから切断されてしまった存在として「私は.」は書かれて,そこに置かれている.それを書いたのが自分なので,私が私を切断して,そのままそこに置いているということになる.なぜそのようなことができるのか.私が文章,文字列の並びにこだわりがないから,こだわりがあるから,どちらでもあると言えるけれど,「私が」ということは関係ないというのは本当のところだろう.「私は」ではなく,「私が.」は文字列そのものがそこに置いたのであって,私が置いたわけではない.確かに私はそこに「私が.」を置いたし,置いた後はこれでいいと思った.けれど,そこに「私が.」を書こうとしたのは,その前の一文であって,私ではない.ただそこに「私が.」が書かれると決まったほんの少し後に,私はそこに「私が.」を書くことを了承している.この了承した感じは,はっきりと覚えている.それを書こうと思った.しかし,それを書こうと思ったことと,それを書こうと私に思わせるところには,時間差があって,後者の決定は私は関与していない.これもはっきりとそう言える.「私が.」と書いた後に,そこに「私が.」あることをよしとしたのも私であるし,その結果,「私が.」は残っている.そして,「私が.」が残っていると感じるとすぐに,それがとても不気味に思えてきて,「切断」という言葉が浮かんできたのであった.

「私は.」が「私が.」に変化している.なぜだろうか.注意不足だと言えばそれまでだが,そうとは言えないくらい自然に私は「私は.」を「私が.」と書いていた.最初は打ち間違えだが,それを間違えと気づかなかった時点で「私は.」は「私が.」になった.この変化にも私はほとんど関与していない.私が関与していないところで,言葉は次々に書かれていく.私は言葉を管理しなようにしている.今日のところはそうだろう.明日はまた違うかもしれない.「私は.」と切断されてしまったので,私は言葉から切断されて,文字列の連なりへの責任がなくなってしまったのだろう.今日は「私は.」と書いたときに,私と文字列とを含んだ全体としての,ホログラフィックな総体から,私は「私は.」というかたちで,切断されてしまって,居場所もなく,ここままできてしまったということなのだろう.

村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる.後半も後半に入ってきて,今日は読み切れないないのはわかっていたけれど,できるだけ正月休みのうちに読みたいという気持ちで,集中して1時間読んだ.文字列を読み続けて,立ち現れる情景を自分の〈視界〉に展開させていって,気がつくと1時間経っている.文字列を読んでいるときには,確実にその情景が〈視界〉に現れていて,それを私は体験しているのだけど,〈視界〉に重ねられる情景の濃度がわからないでいる.透明度が50%くらいだろうか,確かに,私は文字列から情景を立ち上げていて,それを今,私が読んでいる文字列がある〈視界〉に重ねている.その情景が〈視界〉を覆ってしまうことはない.文字列を読んでいるから当たり前だが,でも,文字列を読んでいると同時に,その情景は〈視界〉を占拠している.そのとき,〈視界〉が2つになっているわけではない.〈視界〉は常に1つである.文字列を読んでいる〈視界〉の片隅に情景があるけれど,それが片隅ではなく,〈視界〉を覆っている.でも,〈視界〉を遮るわけではない.文字列を読みつつ,その情景が変化していっているのを楽しんでいる.そして,その情景は私の周りの時間と空間とは別のものとして立ち現れてくて,私の時間と空間に対する感じを変化させてしまう.だから,気がつくと1時間とか,結構の時間が経っていることを,文字列を読むのをやめたときに気づくことになる.〈視界〉に,今の私がいる時間と空間と異なる時間と空間とが現れて,記憶もそれに近いが,記憶の場合は私の過去の〈視界〉がアレンジされているから,私という存在を介して,〈視界〉はつながっているというか,重なり合っている2つの〈視界〉は棲み分けが行われているような気がする.しかし,小説を集中して読んでいるときに現れる時空間が異なる情景と私の時空間の情景が重なる〈視界〉においては,私の情景が後退していっている感じがある.もちろん,文字列を読んでいるのだから,文字列がある情景は〈視界〉から後退するどころか常に前景にあるのだが,前景であることが重要視されないということが起こっている.後景というか,〈視界〉のどこかにある小説の情景が濃度が濃い感じで重なるというよりは,とても強い感じであるというか,見えているようではっきりとは見えない感じでありながら,私の時空間をその情景の時空間に入れ替えてしまうような強さというか,うまさのようなものがあって,私は私の時空間の情景を〈視界〉に見つつ,私の〈視界〉は別の時空間に合わせたものになっている.その別の時空間の情景は,すべてがはっきりと見えるわけではなくて,所々しか見えない.ところどころしか見えない感じは記憶と一緒だが,それとは異なるのは私の時空間ではないということ.私を介して現れているのだから,私の時空間と連続していると思おうとしても,それはやはり異なる.文字列を読んでいるの私の時空間で起こることだが,そこから立ち現れる時空間と,そこに展開される情景は,私とは異なるものでありながら,私の〈視界〉に自動的に入り込んでくるもののように感じる.あくまでも,小説を読んでいる感じを後から考えるとこのように書けるというだけで,小説を読んでいるときは,集中して読んでいるときは,そんなことも考えることなく,私の〈視界〉に私のものとそうではないものが渾然一体となって,すべてが私の時空間というか,別の時空間に私が入り込んで,そこでその時空間を体験しているという感じで〈視界〉がつくられているような気がする.

情報体を考えるための知識を得るために『唯識の思想』を読んでいたのに,途中から,私の生き方を変えるためにこの本を読んでいるのではないかと感じるようになっていった.生き方を変えないと,考え方を変えないと,情報体を感じることができなくて,それは,情報体を信じられないということになって,考えた末に,私が書きたいことが書けないような気がした.だから,考えを変えてみることにする.阿頼耶識から情報体を透かし見たいと思っている.阿頼耶識を知識ではなく,体感するように生活し,思考し,行為していく.これが情報体について考えて,体感していくことに繋がってくるような気がしている.

〈視界〉もまた変わってくるだろう.今の考えを体感するために,考えというか,行為を変えてみるというか,生活の根底にある流れを変えるという感じだろうか.〈視界〉は私がつくるということは考えられてはいるが,その体験がまだあまりできていないので,唯識をフックにして,生活している根底にある考えや感情の流れを変えてみる.そうすることで,〈視界〉の能動性を体験できるかもしれない.〈視界〉のバグを探るのではなくて,〈視界〉が構築されるプロセスをダイレクトに体験する生活を組み立てる.生活を思考に組み込む,逆かもしれない,思考に生活を組み込んでいく.そこから生まれてくるものを掬い取って,記述していく.その準備として,ここで日記が書かれていたのだろう.

ここ二日位,私は自分が薄くなっている感じがあって,それを否定的に捉えていた.けれど,それは肉体や心が重くなるのではなくて,薄く軽くなっていると捉えると,ポジティブに捉えらえられるのではないか.すべてをポジティブに捉えるということではないけれど,どこか私が今感じている,私の薄さは私をこれまではいけなかったところに連れていってくれるのだろうし,そこから私はあらたな〈視界〉が得られそうな気がしている.それがどんなものになるのかはわからないけれど,〈視界〉において具体的な視点と俯瞰的な視点がとが入れ替わりながら,〈視界〉が構築されるプロセスを探っていける体験が生まれるといいなと思っている.

私は「透かし見る」という行為が好きなので,「透かし見る」になりきってみる.なにを言っているのだという感じだが,「透かし見る」という行為になりきるとどうなるかを考えて,それを感じてみる.「透かし見る」という行為に成り切ったとき,私は私ではなくなり,見ている対象も対象ではなくなり,「透かし見る」のなかに取り込まれていくのだろう.そして,「透かし見る」のなかにある「透かされる」存在もまた,その行為に溶け込んでいって,その状況で考えられてくることを記述していく.そうすると,これまでとは異なる作品記述からの思考といったものができるのではないか.記述することも含んだ思考という行為自体が「透かし見る」となっていく.この状態になるということが,今年のというか,ここ数年の目標となっていくだろう.

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