脳が予測に基づいて外界を認知・行為していくことを前提にして,大森荘蔵『新視覚新論』を読み進めていきながら,ヒト以上の存在として情報を考え,インターフェイスのことなどを考えいきたい.
このテキストは,大森の『新視覚新論』の読解ではなく,この本を手掛かりにして,今の自分の考えをまとめていきたいと考えている.なので,私の考えが先で,その後ろに,その考えを書くことになった大森の文章という順番になっている.
引用の出典がないものは全て,大森荘蔵『新視覚新論』Kindle版からである.
「はじめに」
「風景のあり方がそのもの視点である」という大森の考えを予測モデルに基づいて構成されると私が考える仮想世界の視覚ヴァージョンとしての視覚世界として考えられるだろうか.風景そのものが世界と私との相互作用で生まれる予測に基づく視覚世界として形成される.そこに視点はないが,生物学的な境界となる視野が視覚世界を切り取り,今見ていると私が意識している視界として私に見せる.視覚世界は私がつくるのではなく,世界に対する私の予測モデルが構築する.ここには私の履歴はあっても,それだけでなく,世界の履歴もある.私の視点はなく,世界が際限なく広がる.際限なく広がる視覚世界に対して,私の眼が見ている領域=視野があり,視野によって切り取られた視覚世界が「視界」として,私が今見ている世界として展開される.
「物」はじかに裸で視覚世界に「立ち現われる」としてみよう.このとき「裸で」と言えるだろうか.視覚世界に立ち現れる物は,実物のコピーではない.おそらく,それはデータ的存在として立ち現れている.像ではなく,世界シミュレーションを構成するデータとして「裸」で立ち現れる.
この辺りのことを考えるためにはAntti Revonsuoの「世界シミュレーション」を使って考えるといいのかもしれない.
私はAntti Revonsuoのこと,渡辺正峰『脳の意識 機械の意識 脳神経科学の挑戦』で知った.Revonsuo以外でも,渡辺の「バーチャルな視覚世界」や二次元が膨張して三次元世界が現れるという主張からも,私はとても影響を受けている.というか,私が考える「視覚世界」の多くは,渡辺からの影響だと思う.
「私はいわば「心」という袋をひっくり返しにして「心の中」を世界の立ち現われに吐き出した」を考えてみる.「心の中」が世界の立ち現れとなる.心というものを,世界と私の予測モデルとがつくるものとして考える.Andy Clarkが「人間の心はとらえどころのない,幽霊のような内面的なものではない.脳,身体,世界によって絶えず調整され,うずまく予測の海なのである」と書いていることを引用すると「ひっくり返した」というニュアンスが伝わるような気がする.
予測と意志とのあいだに曖昧な境界があると考えてみる.その曖昧さのなかで,予測に基づいた認知と行為が行われる.ここには意志ではなく,予測がある.そして,予測を外部デバイスに託したとき,自分の予測かデバイスの予測かが曖昧になり,予測と意志の曖昧な境界にデバイスの予測が入り込んでくる.
物理言語が視点を必要としないのは世界と予測モデルとの相互作用から生じる視覚世界を必要としないことなのかを考えてみたい.視点を持たないということは,視野によって視覚世界を切り取らないどころか,ヒトが世界にいなくてもいい.ヒトがいなくなると物理言語はつくられないから,世界の一点にヒトが存在して,視点を必要としない物理言語をつくる.世界と予測モデルの相互作用とは別のモデル=物理モデルを作るということ.そこには視点は存在しない.物理モデル=物理言語と予測モデル=日常言語を重ね合わせる.物理モデルは構築されていない部分もあるが,予測モデルはその空白の部分とも重ね合わされる.ヒトによる物理モデルはないが,物理世界としてそこにある
「空白な空所」は小説『もう一度』に出てくる「ニュートラルな空間」として考えてみると面白いかもしれない.物理モデルと物理世界はそこに存在しているが,それに対応する予測モデルがズレている.このズレを含めて,予測している.予測モデルが物理世界からのフィードバックを受け付けずに,予測モデルが視界(および,視界と同時に立ち現れる感覚の世界)を占有してしまったときに幻像が現れる.光学的虚像は,予測モデルをハックする物理モデル,物理世界から情報によって構成される.
「視覚風景は座標系とは無縁独立なのである」とあるが,予測モデルもまた座標系から成立しているとすると,どうだろうか.幾何学的な座標系とは異なりつつ,対応する座標系がヒトの意識に存在している.見るというだけなら,空間座標とは無縁かもしれないが,空間内で行為をするとなると空間座標に対応するような,空間座標と重ね合わせされる座標が視覚世界に必要なのではないだろうか.それは,ジェフ・ホーキングが提案している脳が作成するとされる座標系かもしれない.
ひらけた場所で遠くを見ていると,ここで書かれていることを思い出す.私の眼に入ってくる光がそれまでの歴史を担っている.私はその歴史を透視しながら,視界を見ている.視界は光の歴史に満ちている.しかし,その歴史は,私が生きてきて構築してきた予測モデルの履歴からもできている.予測モデルに基づいて構築された視覚世界を透して,世界を見る.履歴に基づく予測モデルと現在に至る一連の歴史をもつ光に満ちた世界とを重ね合わせる.
脳を透して見える透視風景を視覚世界と考えて,空気の物理描写をJ・Jギブソンが考える包囲光で満ちた外界だと考える.光の情報が視覚世界を構築し,視覚世界の情報を使って,予測モデルが外界を予測して,認知・行為を行う.認知・行為を行う際に,視覚世界が網膜の視野によって切り取られて,外界に重ね書きされて,視界が生じる.ここで外界を見ているのは私であるとも言えるし,今の私ではなく,これまでの履歴から構築された予測モデルだとも言える.