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131:データを現象として立ち上げる方法

城一裕の「予め吹き込むべき音響のないレコード」となるIllustratorの「ギザギザのライン」は「無音」であり,カッティングされて一つの「レコード」のような存在になったときの「ギザギザのライン」は音を鳴らしているかどうかにかかわらず,そこに「音」を内包している.

音は目に見えないし触れないとよく言われる.確かに,音量・音高・音色といった性質は,色が視覚でしか知覚できないように,聴覚でしか知覚できないものである.だが,それら聴覚的な性質の担い手である音は,物体の振動と同一であり,見たり触ったりできるものなのだ.p. 117

「予め吹き込むべき音響のないレコード」として切り出された「ギザギザのライン」は,「見たり触ったり」できる物体として振動をつくりだす可能性を持つという意味で「音」を内包すると言える.しかし,Illustratorの「ギザギザのライン」は,数値データを変換することで音を出せる可能性はあるとしても,城が描いたのはディスプレイに表示されている「ギザギザのライン」でしかない.「ギザギザのライン」は「聴覚的な性質の担い手である音」をうみだす「物体」ではなく,音と同一の振動をうみだすことはない.

城が描く二つの「ギザギザのライン」の違いを,城がメンバーとなっているThe SINE WAVE ORCHESTRA の《A WAVE》を経由して考えてみたい.《A WAVE》の映像は,インターネットから取得した大量の動画をその1フレーム毎の輝度に基づき,サイン・カーブを描くように並べ直すことで構成されたものである.しかし,その映像は不鮮明なものになっている.不鮮明な映像はコンピュータの加工によって生み出されたものではなく,リアプロジェクションで一つのスクリーンに映像を映し出し,その映像をもう一度リアプロジェクションで2枚目のスクリーンに映し出す.そうすると,1枚目のスクリーンには輪郭が明確な映像が表示されるが,2枚目のスクリーンにはピクセルが溶解した不鮮明な映像が映し出されることになる.1枚目のスクリーンに映し出されているのは映像であるが,2枚目のスクリーンに映し出されているのは映像というよりは,照明のように内容を持たない光に近いものになっている.そして,鑑賞者が見ることができるのは2枚目のスクリーンのみである.

私は《A WAVE》を一度レビューで取り上げて,次のように書いている.

《A Wave》の視界を覆い尽くす巨大なスクリーンは物理的なフィルターを兼ねており,そこでまず膨大なデータが物理的に濾過されていく.次に,濾過によって意味が発生する手前の状態になったデータがスクリーン表面に滲み出していき,コンピュータの記号操作ではつくりださせない物理的肌理をもつ映像が生まれる.最後に,スクリーン上でデータと映像と物理的肌理とが重なり合い,模様のような不明瞭な映像とともに映像にすべてを変換しえない膨大なデータの気配が物理世界に漂い出す.SWOは《A Wave》で,巨大なスクリーンという物理的な膜を基軸にしたシステムを通して,普段は明確に分けられているデータと映像と物理世界とが重なり合って存在するアモルフな状況をつくっているのである. 

水野勝仁「あらゆる世界が重なり合う世界」 in YCAM YEARBOOK 2017-18

1枚目のスクリーンに映る映像はデータと直結しているが,2枚目のスクリーンに映る映像はデータのつながりが曖昧になって照明の光に近いものになっている.これら二つの映像は構造では重なり合っているが,作品を見ている人にはデータのつながりが曖昧になって照明の光しか見えない.

「予め吹き込むべき音響のないレコード」に戻ると,Illustratorで描かれた「ギザギザのライン」はデータと直結した映像でしかない.さらに言えば,城は自由に操作できるデータの変換可能性を考慮せずに,映像として提示されている映像だけを見ていて,映像で示されている「ギザギザのライン」をできるだけそのままのかたちで物理サーフェイスに刻み込むためにデータの操作の自由さを用いる.物理サーフェイスに刻まれた「ギザギザのライン」は,《A WAVE》の2枚目のスクリーンに映る映像のようにデータとのつながりが曖昧になっている.データとのつながりが曖昧になったが,物理サーフェイスによってかたちを保持できるようになった「ギザギザのライン」は物体の振動と同一の音を生み出す「溝」となっている.そして,この溝が不明瞭な音を出す.

私はこれもまた過去に,城の「レコード」の作品について,次のように書いていた.

カッティングマシーンやIllustratorなどのソフトウェアを組み合わせて「音」という現象を情報と物質の両面から加工して,その結果を「レコード」として提示して,「レコードプレイヤー」で音を「現象」へと変換したものを聴く.物質としてのレコードとここで聴いている「音」そのものは特別にあたらしいものではないかもしれないけど,そこに至るプロセスのなかで「音」という現象のあり方が変化しているように考えられる.

この過去の自分の書いたものと今の自分の考えとを合わせて考えると,城一裕は不明瞭な音や映像をつくることで,データを現象として物理世界に取り出していると言えるのかもしれない.レコードやスクリーンといった一つのサーフェイスでデータと直結した物理世界の何かを示すのではなく,データと物理世界とのつながりを曖昧にした現象を発生させている.その現象は,データと物理世界とのつながりが曖昧になっているがゆえに,そこで生まれている音や映像はデータという物理世界から濾過された抽象的な何かを示している.よって,城が「「予め吹き込むべき音響のないレコード」で聴かせる音は,データから立ち上がった現象と呼べるものなのである.データは目に見えないし触れないとよく言われるけれど,城はデータを物質に曖昧なかたちで定着させて,現象として立ち上げる方法を「予め吹き込むべき音響のないレコード」として開発したのである.


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