あの時「うっせぇわ」と言えたなら
私は短大生の時、家の近くのスーパーの中にあるパン屋でバイトを始めた。
18歳にして人生初の社会人体験である。
私の仕事は主にパンの陳列・レジ打ち・袋詰めの3つで、基本はレジに居て暇な時は売り場に出てパンが取りやすいように綺麗に並べたりするのだ。
長きに渡りアンパンマンを視聴し続けた身としてパン屋で働くことができるのは夢のようだった。人生初バイトだった事もあり、私は「この店のバタコの座は私がいただく」とやる気に満ち溢れていた。
声は出る方だったので初日に教えられた「いらっしゃいませ!」「どうぞご利用くださいませ!」といった呼び込みは及第点をいただき、「元気なバイトが入ってきたな」と喜ばれたがそれも束の間だった。
そう、何故なら私には元気しかなかったのである。
元気いっぱい呼び込む割にお客さんからの質問には一切答えられず、くまのプーに登場するピグレットのように慌てふためき「どどどどどどどどどどうしたらいいんでしょう」と先輩に泣きつく。数字も苦手なので反射的に覚えなければならない数字が飛び出すと大混乱。お客さんから「この食パン6枚切りにしていただける?」と声をかけられたら威勢の良い「はい!!」の返事と共に全てを忘れてしまう。そんなポンコツアルバイトだった。
ポンコツアルバイトは日々小さな物から大きな物まで余すところなくミスを繰り返したが、優しい先輩と店長の根気強いフォローのおかげで、3ヶ月経つ頃には1人で売り場を切り盛りできるようになっていた。
その日はお客さんが全くおらず暇で暇で仕方なかった。
ふと売り場に目をやると山のようなパンたちが閑散とした空間の中で寂しそうに並んでいる。売れ残りのパンはほぼ全て廃棄になってしまう。売れないパンたちが美味しそうに見えるよう整えていると、1人のお客さんから声をかけられた。
「おい、ネーちゃん。パイはないんか?」
振り向くと中肉中背の中年男性が、トングを忙しなくカチカチと鳴らしながらそこに立っていた。私は
「アップルパイならこちらにございますよ」
と言いながら売り場に案内した。
ゴロッと大きなリンゴ煮が入ったアップルパイはうちの人気商品だ。
しかし、商品を前にしてもお客さんは不服そうだった。
「アップルパイの気分じゃないんだよなぁ」
そう言われましてもうちの店にあるパイはアップルパイだけだ。ない袖は振れない。
「大変申し訳ございません、当店のパイはこちらのアップルパイのみとなっております。」
私は正直にそう答えた。わかりました、と引き下がるかと思ったがその客は不気味な笑みをたたえ、店内をぬたぬたと歩きながら私から視線を逸らさない。
「別のパイ、あるじゃないかぁ。」
「え?」
「だから、あるだろ〜。」
話が通じない。もうこうなってはこいつはお客様ではなくただのオッサンだ。
怒っているわけでは無さそうだが、妙に甘えたような声を出す不気味さに私の嫌な予感は確信に変わる。
「申し訳ございません、パイはアップルパイだけなんです。」
同じことを繰り返し伝え、頭を下げる私の姿を見た男はニヤニヤしながら言った。
「ネーちゃんのパイ、ちょうだい。」
一瞬、頭が真っ白になった。
この男のいうパイとは即ち私の胸のことである。
私は店員と客という立場で初めて、所謂「セクハラ」というやつを受けたのだ。
日々起こるクレームの対応で心がポキポキしかけていた私は何故か「この客を怒らせてはいけない、機嫌を取らなければいけない」と思った。そして咄嗟に
「こちら在庫2点ですがよろしいでしょうか。」
笑いながら、そう答えた。
男は一瞬きょとんとした後満足そうにニヤッと笑い、空のトレイとトングを私に押し付け去って行った。結局何も買わんのかいと思ったがそれよりも男が去った安心の方が強かった。
ずっとバクバクと大きな音が体に響き渡り耳障りだったが、その音が自分の心臓の音だと気がついたときは驚いた。私はきっと、ずっと怖かったのだ。
男の客という立場を利用した理不尽な暴力が。
私は申し訳ない事をしたと反省した。
もちろんあの男にではない。
私があの時男を喜ばせるような対応をしてしまったから、きっとあの男はその後も同じようなことを違う女の子に繰り返していただろう。私の何倍も怖くて傷ついた子がいるかもしれない。私は被害を助長してしまったのだ。
あの時「反発する」という発想は私にはなかった。うまいことを言ってその場をやり過ごせば全てが丸く収まる。反射的にそう思ったのは、恐怖もあったが「この手の発言には耐え忍ぶしかない」という潜在的な認識があったからだと思う。
怒らせてはいけない、機嫌を損ねたらいけない。
店員と客という立場でも、1人の人間同士である。絶対にそんな事はないのだ。
「うっせえわ」と叫ぶ若い世代が問題視されているというが、本当にそうだろうか。
自分の人権を侵された時に「なぜそんな事を言われなければならないのか」瞬間的にそう思い、キッパリとした態度で対応できる強さは必要だと思う。
若い子らよ、そのまま叫び続けてほしい。
他者を思いやる優しさとともに、いざという時の為に大切にしてほしい。
その気持ちはいつか自分を守る盾になるのだから。
いただいたお気持ちはたのしそうなことに遣わせていただきます