望みしは何ぞ 道長の子藤原能信の野望と葛藤 永井路子著 その二
御帝徳が足りぬ故に内裏も焼けた。ゆっくりと父の視線が能信に向けられた。そのことを気にしておられる気配はないか。別に。父の言葉のその先は分かっている。内裏焼失にかこつけて三条帝に退位を迫ろうと言うのだ。俺にそのために働けと言うことだ。すぐ気づいたが知らぬ顔をして黙っていた。道長はそうかまた視線をそらせた。私がそれとなくと言うなら今だ。能信はしかし口を噤んでいる。鈍い奴と父君は思っておられるだろうな。もう一度能信ヘ視線を戻した道長はふしぎな微笑をして、なにかとご苦労だった蔵人頭の修業もそのくらいでよかろう。呆気にとられる能信の前で道長は別のことを持ち出した。近く頼宗を権中納言にと考えている。それは兄もさぞ喜びましょう、すでに従二位だが年下の異母弟教通が権中納言に任じられているのに、今だに廟堂の外に置き去りにされて、やっと父の眼は届きはじめたようだ。頼宗の後はそなただ労に報いねばならな。能信は正直言ってあまり父のために働いた自覚はない。排除より懐柔をという父の手を実行したに過ぎず、それも父の為というよりも自分自身の演技を磨くために。いよいよ三条帝の眼疾が進みまた、父道長の是が非でも我が孫を皇位にそしてその弟を東宮に。祖父としての執念があらわになっているのだ。そして三条帝の片意地と道長の執念とどちらも身動きできないところへ追い詰められるうち、両方が力尽きへたり込むようなかたちで結論が出た。三条は皇位を退くそのかわり敦成の次の東宮は三条帝の子敦朗。終わってみればこの他のかたちでの妥協などは考えられない、ごく自然な決着のつけ方だった。皇位から降りた三条は穏やかになり道長との間も和やかで、道長も三条の身辺になにくれとなく気づかいをみせていた。あの修羅と執念はどこえ行ってしまったのか。平穏な生活が一年余り続き、譲位の翌年の寛仁元年五月と燭が燃え尽きるような静かさでこの世を去った。三条の死を聞いて院の御所に駆けつけた能信は、死の床に近づこうとして足を止めた。物陰に隠れて禎子がひっそりと泣いているのだ。人々は三条の周囲に群がってただ騒ぎ立てるばかり、影のように立っている禎子に気づく人は誰もいない。姫さま思わず能信は跪く黒い瞳には涙が溢れている。私はみんな知ってるの、私が生まれたばかりにお父さまもお母さまも不運に堕ちておしまいになったの。いいやそんなことはないたった五つの子が考えつくはずがない、慌てて打消しながら能信は禎子の前に跪き続けていた。三条の葬礼がすんだ後能信は時折敦朗の許を訪れた。なんと言っても東宮の座にある。今までのかかわりもあるしこれは布石の一つであった。道長は後一条即位の時摂政になったが、早くもその地位を息子の頼通に譲っている。が政治の中心にあるのは依然として道長である。道長は東宮敦朗の元に能信の妹の寛子をつまり東宮后だ、やっと高松系の娘に日が当たる。敦朗の元を訪れた時、兄顕信のことが話題になった十九で出家を思い立ったのか、感に堪えたような呟きを漏らした。何不足ない身の上なのになあ、そう思われますが兄としてみればいろいろの思いがあったようで。そうか、そうだろうとも敦朗は深く頷いた。その次に訪れた時も顕信のことを話題にした。父に内密に叡山に登ったのだな、はあ叡山から使いで知りましたわけで。父も驚いたろうな。一日で頬がこけてしまいました。それからも敦朗はしばしば顕信について尋ねた。元気で修行しているか出家を後悔していないか。かなり苦しい修行のようですが自分にはこれがふさわしいと申しまして。穏やかで控えめの兄にできるのかとも。そうかと言いかけて敦朗は能信を見つめた。そなたにもできるか。兄の気持はよくわかりますが私にはできそうもありません。そうか兄の気持はわかるか。その言い方に能信はこだわり次の言葉を飲み込んだ。東宮様もおわかりなので。そう能信は聞きたかったのだ。が、それを尋ねさせないような雰囲気が敦朗には漂っていた。東宮の心の中にも鬱屈がある。それは何なのか父道長との間が必ずしも円滑ではないせいか。しかし父は妹の寛子との縁談を進めているのだ。そう思うもののいま一つ、能信の手の届きかねる何かがあるのだろう。その年の秋は雨がちだった、ある夜能信は敦朗の使者の密かな来訪を受ける。東宮さまがお忍びで、お越しをと仰せられておいでです。何か御用でもそのようなお尋ねがあったら、長雨のつれづれのあまりと申せとのことで。何かある、重大なことを敦朗は打ち明けようとしているのではないか。もしかすると、東宮をお辞めになるにでは。敦朗も能信も、口に出しかけて出しかねていることがあったのはたしかだ。それがいまはっきりとした。能信は馬を飛ばせ敦朗邸に。お健やかでいらっしゃいましたか。ひどい雨の中を来てもらってすまなかったな。敦朗は微笑しこちらはこの雨が幸いなんだが。呟くように言った。この雨なら出歩く者も少ないだろうからね、この雨の音人声までもかき消すほどではないか。何のことで、つまり人に聞かせたくない話にはふさわしいということさ。そしていう[東宮を降りたい][なんと]そうか、やっぱり、能信の声はうわずっていた。[そんなに驚くなよ、能信]敦朗は微笑している[はいあまり思いがけないお話なので][ああまじめだ、本気の話だ][考えてみるがいい今の帝は十四も年下だ、その帝が譲位するまで待つというのはかなり滑稽なこと]他人事ような言い方をした[東宮は帝より年下がよろしいこれはあたりまえ、その当たり前の話を今そなたにしている][それを伝えてくれ]誰にと敦朗は言わなかった。かしこまりました。とは言っても能信はまだ納得できない面持ちで[よろしいのでございますな]念を押す言い方に、帝王の座が目の先にあるというのに、この方は自ら立ち去ろうとしている。兄顕信のことを話題にした時のことを思い浮かべたとき、敦朗はごく自然なうなずき方をして[よろしく頼む][なぜそのようなことを思い立たれましたので][語ってもせんないことさ]敦朗は微笑している[とにかく東宮を辞めたいそれだけさ]頭に浮かぶのは二年前の三条と道長の対決だ、こんな事になるのだったらあのすさまじい争いは何のため。敦朗はそれに応えるように首を降っている。[いやそうじゃないんだ][話したほうがよさそうだな][本当を言えば東宮になってもならなくてもどっちでも、いやなりたくないと考えたことも、ではなんで今まで辞めなかったのかというのか][それはな父帝のおんためさ][父帝は俺を東宮にしようと必死だった。それだけが生きがいだった][それを知りながらおよしなさい、東宮になりたくないのですとはよもや言えまい][でも、父帝が世を去られた今役目はすんだのさ][それに位についてもなあ]いったい誰が本気で補佐をしてくれるというのか、と篤明の眼は問いかけている。そんな中で何が面白いのか、と、表側から見れば戦わずして道長の軍門に降ったことに、意気地なし、腰抜けと、人はいうかもが、そうした侮辱を歯牙にもかけない強さがこの人にある、飄々たること風のごとく。[早くそなたの父に告げて安心させてやれ、敦良殿を東宮にすることそれだけが今の生きがいじゃないのか]さらりと鋭いことをいった。翌朝道長のところに昨夜の話をした。 その三へ
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